法学者は何を研究しているのか(2・完)

日本というのはとても変わった国で、放っておいても、みんなが他人の都合とか全体の方向性とかを慮って、何となく同じように行動してしまう。「忖度する」なんて言葉、日本以外にもあるのだろうか(ひょっとして若者は知らない言葉かもしれないが、法律家になるなら調べて下さい。「そんたく」です)。

こうした「忖度」文化が、普段の人付き合いにおいて発揮されているだけなら、まだ美しいような気もしないことはないが(嘘です。本当はしません)、国家権力との間でもほとんど同じであるのは、やはり問題だと思われる。

審議会などで議論をしていると、その場にいる委員のほとんどは、「国家と一心同体」である。「秩序の維持は国の規制によって行うべきだ」という前提に立ち、国家の側に立って、「どういう規制を作ろうか」と考えている。権力的な地位にある人が多いので割り引いて考える必要があるが、患者の代表として参加している人などでも、その点は大体同じである。もちろん、私は法学の立場でそうした会議に参加しているわけであるから、それを黙ってみているわけにはいかない。そこで、法学的にはごく標準的な立場を前提に、「その事項に関してはそもそも国には規制する権限がありません」などと発言すると、その場の空気がしんとなり、孤立無援の革命家があらわれた、といった趣になる(もう慣れた)。

独裁を防ぐために国家権力を法の下に置く必要がある、ということは、一般論としては理解してもらえるのだと思う。しかし、日本はなにしろ放っておくと自然に「理想の社会主義国」のようになってしまうような社会なので、誰か(特定の権力者)に支配されている、という感覚がなく、急に「国家権力が…」とかいわれても、全くピンとこないのだろう。私も日本で生まれ育った者であるので、その辺りは一応理解できる。

では、そういう日本では、「独裁」に類する状況での大規模な人権侵害、といった事態が生じないのか、というと、決してそんなことはない。敗戦の前のことは、「誰かが悪かった」ということで処理されているが、日本の人たちは、国家の指導層にとって都合のよいことを、命令される前に、指導層の期待よりはるかに徹底的に実現しただろう。同じことは、アメリカが占領しに来たときにも起こり(もしかして続いており)、行政が科学研究に対して「ガイドライン」を策定したときにも起こっている。われわれがそのように行動してしまう国民である、ということは、もう少し自覚され、反省されてよいと思われる(日本の「おもてなし」精神は、明らかに「お上の意向を忖度する」文化と同根ですよね?)。

日本の人たちが、国家、というか共同体に対する素朴な信頼感を持ち得ているのは、ある時期には幸せなことであったかもしれないが、危険なことである。そして、少なくとも現在の日本では、幸福感にもつながっていないように思う。

このままではうまくいかないと分かっているのに、「みんな」がどこに行くかが分からないので身動きが取れない。「みんな」と違うことがしたいけど、何となくしてはいけないような気がしてできない。それは相当に息苦しい社会である。教師として若い人を見ていてもいつも思う。そんなに周りに合わせなくてよいのに。しかし、そのような社会であることの明確な自覚がなければ、逃れる術もないだろう。そのうえ、「イノベーションを担う人材であれ」「人と違う意見を言え」などと求められるのだから、完全にダブルバインド(二重拘束―二つの矛盾した命令が強要されている状態)である。まともに受けたら、引きこもるしかなくなってしまう(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)参照。この本とてもいいですよ。若い人たちにとくにお勧めします)。

日本において、共同体と対峙する「個」の発達がとりわけ乏しいのはなぜか、というのは大それた問題設定であるが、「苦労が足りない」ことは関係していると思われる。日本だって戦争や災害で大勢の人が不遇の死を遂げたり、十分に苦労はしてきたじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、共同体とその成員を深く傷つけるのは、その種の被害体験ではない(被害体験はむしろ共同体意識の涵養につながりますね)。歴史の教えるところ、共同体に決定的なダメージを与えるのは、共同体内部での激しく執拗な争いであり、殺し合いである。ヨーロッパは宗教戦争で、アメリカは南北戦争でこれを経験している。個人の人格を尊重する態度、理性による問題解決を信じる態度、寛容の精神(いずれも近代法の根幹をなすものである)は、集団的な信念が恐ろしい被害をもたらしてしまったことへの反省として生まれてきたものだといわれている(と思う)し、そうだろうと思う。

先にも書いたように、人間は共同体の中で生きる動物であり、共同体の存在自体は前提とせざるを得ない。そして、この規模の共同体を維持するのに、国家という仕組みは、さしあたり、必要なものであろう。しかし、集団が秩序を維持していこうとすると、うっかり集団主義が発達し、集団同士で殺し合ったり、内部の者をリンチしたり、戦争を仕掛けたりしてしまう。そういうものなのである。この種のことは、今だって、そこら中で普通に起きている。

共同体の秩序は保ちつつ、そのような事態を防ぐにはどうしたらよいのか。そのための仕組みを研究してきたのが法学である。はっきりいえるのは、権力を特定のところに集中させるとよくない、ということで、そのためには、秩序の維持を国任せにしない態度が絶対に必要である。自由になるということは、一言で言えば、自分たちのことに関して自分たちでルールを作れるようになる、ということであり、それが、市民が長年かけて獲得してきた「自由」の中身である。「公的なことは自分たちが選んだ王様にお任せして、庶民は好き勝手にやらせてもらいます」というのは市民的な自由ではないし、民主的な社会の在り方でもない。日本では、「王様」がしばしば「世間」だったり「みんな」だったりするので、その非民主性が見えにくいが、構造は同じである。

具体的に言いましょう。世間で何か問題が起こった、あるいは起こりそうである(食品偽装とか、いい加減な遺伝子診断とか)。そのようなとき、ニュースのコメンテーターは大抵「国の規制に不備がある」「国の規制が必要だ」と発言する(専門家が出てきてそのようにいうこともある)。これが正に、「公的なことは王様にお任せする」態度である。

「問題」は起こらない方がよいです。もちろんです。しかし、問題解決を安易に国に委ね続ければ、国の権力は肥大し、権力者はいつの間にか法より上に立ち、個人の人格を(例えば研究の自由を、表現の自由を)尊重しなくなる。安倍首相はよく口約束をしますが(「私が間違えなく実行します」「国民の皆さんの人権が侵害されることのないよう適正に運用します」)、これは法ではなく安倍氏個人(人)が国を支配しているのだ、と彼が理解していることを示している。すごく危ういです。

(アメリカ政府による盗聴が問題になったとき、オバマ大統領が、私が口約束をしても意味がないから立法により明確な制限を設ける、というような趣旨のことを言っていたのと正反対の態度である。真っ当なことをいうなあ、と思ったのに忘れてしまったので、もし知っている人がいたら教えて下さい。)

生物系、医学系の研究について、研究者自身、研究者コミュニティによる秩序維持の可能性を探り、サポートし、国の規制をギリギリ必要な範囲に止める策を考える、という仕事が、法学の研究であり、実践であり、また若い人たちがもっとのびのび暮らせる世の中を作るためにとても大事なことである(と少なくとも法学は思っている)ということが、お分かりいただけるであろうか。

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