説得の言葉と正当化の言葉

日本には演説に代表される「公共的な言論」で人々の心に残っているようなものがないなあ(そしてそれは民度とかかわってるよね、とも)、と思っていたが、大正デモクラシーの前後の、差別されてきた層が権利の拡大を求める運動の中にそれがあることに気づいた。

水平社宣言(大正11年)の「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」とか、平塚らいてうの青鞜発刊の辞「原始、女性は太陽であった」(明治44年・1911年)とか。

  http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/siryou/kiso/suiheisya_sengen.html

  http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hiratsukaraiteu.html

 *水平社宣言の言葉は先日「世界記憶遺産登録を目指す」というニュースに接するまで私は知りませんでした。すみません。

改めて読んでみたが、どちらもたしかに心を打つ、力のある文章である。

これらは、権利を認められていない層が社会に対してそれを要求するために発せられた言葉であり、必然的に「説得の言葉」である。他人に対してだけでなく、自己に対しても、未知の方向に向かって、何が真実かを問いかけながら進んでいくための言葉である。だからこそ、これらの言葉は胸に届くものでなければならないのだし、届くものになりうるのだろう。

日本では公的な言論のほとんどは「正当化の言葉」である(役所関係の検討会報告書などはその典型ですね)。正当化の言葉と説得の言葉は、理に適っていることが要求される点は共通だが、理路の方向は真逆である。

説得の言葉は、まだ正しいと認知されていないものを届けるために、何が正しいのかを探り確かめながら進む。既存の現実から新しい認識に達するには、しかるべきところで裂け目を思い切り飛び越えることが不可欠で、細心の注意と勇気が同時に要求される。これがうまくいった場合に、文章の訴求力も生まれる。

これに対して、正当化の言葉は、すでに決まった方向を、後から説明するための言葉である。結論はもう決まっているのだから、あとは「理に適っている」外観を装うための辻褄合わせである。このような文章は当然訴求力を持たないが、「決まっている」のだから、別に人の心を打つ必要はない。社会で安定した地位にあり、その地位を脅かされる心配がない人、そしてその状態を継続したいと思っている人の言葉である。本当は政治家の言葉は国民に対する説得の言葉であるべきだが、しばらく前までの日本では平然と正当化の言葉だった(最近はそのレベルですらない)。

前にロースクールの答案の多くに「懐疑」が足りないと書いたが(http://s-tatsui.com/archives/43/)、懐疑が生じないのはそれが「正当化の言葉」として書かれているからですよね。結論は決まっている。だからイラッとするのだな、と今分かった。

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