公共を語る言葉が日本にないのは…(1)―法の精神

私は割に世間知らずな方である。はっきりものを言うというので(あと女なので)、行政の会議などで使われているところがあるが、世間の人たちは意見なんか言っても仕方がないと知っているから言わないのだろう。私はそんな風にはまったく思っていなかった。思っていなかったので、正しいと思うことを発言し、人の意見も正しいかどうかという観点から聞き、いったいこの国はなんでこんなに理屈が通らないのだろうかと首をかしげていた。しかし、最近になってようやく、「そうだったのか」と思うようになった。日本では、ほとんど全ての社会的な意思決定は、議論の結果ではなく、「互いの立場」や「上の人の意向」「『国民』」の意向を(誰かが)忖度した結果によって決まる(法律の内容すらそうである)。正しさをめぐって議論などしても仕方がない、ということになるのは、当然のなりゆきである。

だがしかし、最終的に理屈が通らない、ということが分かっている社会で、法学なんていう学問を情熱的に続けていけるものだろうか。私にはちょっと考えられない。だって、「正しさ」の基礎を、宗教に代表される伝統的な「権威」ではなく、軍事的な強さでもなく、「理性による探究」に置くことこそ、近代法の基本精神なのだ。「理性による探究」を、社会を調整する原理にしましょうね、という前提で、近代社会は成り立っているのである。しかし、日本社会は、「理性による探究」の結果を、決まった結果を正当化するために使うことはあっても、真に意思決定の基礎にすることは決してない(意思決定の基礎になっているのは、「みんな」とか「上の人」とかいった謎の「権威」である)。これは、日本には近代の「法の精神」がまったく根づいていない、ということにほかならない。私は日本の法学の議論のレベルが低いとは思わないが、ひょっとすると、この肝心なところを放置して、近代国家であるような見せかけを作ることしかしてこなかった学問なのではないか、という悲しい疑念を持つようになっている(考えるといつでも目を潤ませられるくらい悲しい。ほんとに)。どうでしょう、みなさん?

昨今の政治情勢に関して、「日本は法治国家から人治国家になろうとしている」と指摘されているけれども、本当の意味で法の支配する国であったことはないのではないかと私は思う(真剣にそうなろうとしたことはあったと思うが、達成しないうちに、達成していないことが忘れられてしまったのではないか)。

刑法の研究などそっちのけでこの問題を考えた結果、さしあたり、これは日本語そのものの特異性、そしてもちろん、日本語を形成してきた歴史の特異性に由来する、という暫定的な結論を得た(もちろん私が考えたというより、いろいろなものを読んで「そうか」と思っただけだが)。分かったからといって簡単に解決はできないだろうが、分からなければ始まらない。というわけで、長い話になります。

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外国にときどき行くようになり、また日本でも外国の(欧米に限らない)人と接する機会を持つようになったとき、まず驚いたことは、公共的なことがら(社会の共通利益に関すること)をフランクに語り合うことが非常に容易である、ということだった。あまりに衒いなく語られるので、「なんかこれは建前論として、きれい事を語っているのだろうか?」と感じるほどだった。でも違う。私は日本では、普通に(公共的なことがらについて)思ったことをしゃべるのに、「きれい事に聞こえるかもしれませんが…」と言い訳をしてから話し始めることが多い(その上、「ええっと」とか、少し嘲笑気味の照れ笑いとか、そういうものをどうしてもくっつけてしまう)。日本では公共的なことがらについてまじめに語ることそれ自体が「きれい事」みたいに受け取られてしまうが、日本以外の国ではそうではない。驚きだった。

(宇多田ヒカルが「英語ではシリアスなことを言えるけど日本語では言えない」と言っていた、という話を、たしか高橋源一郎さんがどっかで紹介していたのを読んだことがある。「分かる分かる分かる分かる」と思ったものだった。)

オーストラリア26代大統領ケビン・ラッドのアボリジニへの謝罪演説(2008年)というのは、日本ではどのくらい知られているのだろうか(私はクリス・アボット『世界を動かした21の演説』(英治出版・2011年)を読むまで知らなかった)。とても率直で丁寧で謙虚で前向きなすばらしい演説で、私がオーストラリア人だったら、よくやってくれた、と心から感謝をするだろう。既成事実の積み重ねだけでは解消できない重たい事実というものはやはりある。オーストラリアの白人がぎこちなさをまったく感じないで先住民と付き合っていくためには、理性と感情が伴った言葉による事態の総括と謝罪と将来への誓いがどこかで行われる必要があった。ケビン・ラッドがいうように、「これは真実なのです。私たちに突き付けられた冷厳で居心地の悪い真実なのです。私たちがこの真実と真正面から向き合うまで、私たちはいつまでも影に覆われ、完全に和解し完全に結ばれた国民としての将来は晴れないでしょう」。当時この演説がどのように受け止められたのか(何しろ知らなかったので)分からないが、おそらくは、それを成し遂げたのではないかと思う。ネットでも読めるので(http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-619.html 翻訳は途中までです)、ご一読をお勧めします。

前回書いたように、日本にも差別は様々に存在してきたし、今でもある。しかし、なんというか、「落とし前」は付けられていない。私は国籍や出身地や何とかはその人と個人的に親しくなれるかどうかと関係がないと思っているけれど、例えば自分が被差別部落出身者だったり在日韓国人だったりして、それをごく普通に他人に言えるか、というと、それは難しいと感じる。反対に、誰かにそう言われたとして、まったくぎこちなさを感じないでいるのは難しい。これは個人の差別感情の反映ではないだろう。日本人として、日本社会の問題を引き受けているからそうなるのだ。

私はまったくぎこちなさを感じないで、すべての人と付き合いたい。北朝鮮の人とも中国の人とも韓国の人とも、相互の社会同士の軋轢を感じないで付き合えるようになりたい。しかし、それは個人の力で完全に成し遂げられることではなく、日本を代表する立場の人が、言葉で、関係するすべての人を説得し納得させることによって初めて成し遂げられることである。だから今すぐにでもそうしてもらいたいと思うのだが、どうでしょう。日本の政治家が、ケビン・ラッドのように演説する姿を想像できますか。演説は、まあ、しようと思えばできるんだろう。しかし、その言葉が上滑りせず、真に人々の心に訴えかける場面を想像できますか。

私はできない。自分で読み上げてみるとよく分かると思うのだが、なんか日本語って違うでしょう?「私は、その約束を果たします」とか、言った瞬間に、「そんなことを真顔で言える奴は絶対信用できない」という感じがするでしょう?ね。そうなんですよ。日本語って。

言葉が人を説得し、社会を変革するためには、適切な言葉が発せられなければならないのはもちろんだが、それ以前に、人々が(ここでは論理的なものとしての)言葉を信じていなければならない。なんていうんですかね、言葉による説得、というのはあり得ることで、適切な説得がなされれば受け容れる準備がある、という状態でなければならない。言葉を発する方と、受け取る方が、両方、言葉の現実形成力を信じていなければならないわけである。しかし、大変悲しいことに、現在の日本にはそれはない。日本(の公的言論)にあるのは、みんなの気分を代弁する言葉、現実を覆い隠すための言葉、そうでなければ、現実と乖離した言葉(法学の発している言葉はこれではないか)だけで、現実と結びついて、現実を作る言葉というのは、存在しないのである。


精神科医の斎藤環さんが、日本人には情報管理(「記録」「伝達」「保存」のすべて)ができないことを指摘した上で、それは「私たちの言葉が、現実と乖離しているからだ」と述べておられる(斎藤環「日本人と秘密」atプラス19号)。少し長いし、引用内引用まであるが、引用する。

「欧米圏、とりわけアメリカの報道に接していていつも痛感するのは、そこに『言葉が現実を構成する』という強固な信念がある点だ。とりわけ「文字=現実」という認識は日本人よりもはるかに強いように思われる。
たとえば池田純一は、つぎのように指摘する。『アメリカで紡がれる言葉や表現には多様な集団間の拮抗という緊張感に基づいて発せられるものが多数ある。ある行動や未来の実現のために発せられる言葉は表現が多数ある。裏返すと『言葉を発すればそれは実現する』『言葉には現実を促す力がある』と見なす文化がある』(『ウェブ文明論』」。
つまりアメリカ社会においては、言葉と現実の関係は、日本よりもはるかに緊密なのである。またそれゆえに、アメリカは、政治決定のあらゆるプロセスを強迫的なまでに言語化して記録し、アーカイブとして保存しようとする。」

これに対して、日本人は、言葉が現実であるとはほとんど思っていないため、記録も取らないし、保存もしないし、適切な伝達もできない。理想も語れないし、社会を動かす演説もできない。

「なぜ私たちは『現実』を語れないのか。なぜ私たちは『言葉で現実を変える』可能性に対して常に冷笑的なのか。」

この問いに対して、斎藤環さんは、柄谷行人を参照して、日本語の特殊性が関わっているのでは、と示唆される。それはそれで面白いのだが、私としては、じゃあ、その日本語の特殊性をもたらしたのは何なのか、と思ってしまう。そこで考えると(というのは嘘でいろいろ読んだものをつなぎ合わせると)、それは、日本の政治システムの特殊性、要するに歴史から来ているのではないか、と思われる。

うまくまとめられる自信がないが、つづきは次回に。話は平安時代にまで遡ります。(続く)

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