ロースクール答案添削

学生諸君には、法律家の仕事はみんなに納得してもらうことなのだから、解決の道筋を示すときには、なぜ事実をそのように捉え、法をそのように解釈・適用するべきなのかを説明し、考えられる異論にも丁寧に答えた上で提案をするよう教え、学生諸君もそのように努力している(と思う)。

それでも、学生さんが書いてくる答案には何となく違和感を覚えることが多い。「とくに大きな問題はないんだけど、なんかちょっとな~」と感じるのである。なぜかな、と考えて、一応、分かった。「懐疑」が足りないのである。たぶん。

答案の多くは、自らの出した結論が正しいことを前提にして、その「正しさ」を証明・説得するために理由を書き連ねる。とてもよく書けていて、非の打ち所もない、ということもある。それでも、書いた本人が「ほら。こんなに正しいでしょ。その上、こんなに丁寧に説明してるんだし。どうかこれで納得してね」「どう考えてもこれが妥当な結論だし、先生に言われたとおり、ちゃんと説明しています。これで納得して下さい(そしてよい点数を下さい)」という気分でいる限り、読み手の違和感は消えないだろう。

法曹は、制度として「正義」を担う特殊な職業である。そのような職を担う者にとって、一番大切なことはなんだろう。私は、「致命的な間違い(不正)を犯さない」ことであると思う。

もちろん、われわれは「正しさ」を求めて議論をするものである。しかし、何が正しいかはそう簡単に分かるものではない。そして、正しいと考えることを主張しつつ、「でももしかしたら間違ってるのかも」という疑念を持ち続けることが、「正しさ」に近づく唯一の道であるし、自分の知性を最高に発揮する策でもある。「致命的な間違いを犯さない」という構えは、法曹として最小限の要請であると同時に、最善に至る道でもあるのではないかと思う。

これは学生さんに是非お伝えしたいことだが、恐るべき悪事(民族浄化とか)というものは、いかにも悪そうな顔をした「悪人」が起こすものではない。私が理解している限り、人間が最低最悪のことを実行してしまうのは、(1)自分が正しいことをしていると信じているとき、(2)自分を大きなシステムの歯車にすぎないと捉え、個人として自己の行為の適否を考えなくなったとき(ちゃんと読んでいませんが、ハンナ・アーレント『イエルサレムのアイヒマン』。映画は見ました)の2つである。(1)も(2)も部分的にはよく見られる人間像であるが、懐疑を失うことは思考を止めることであり、それはとっても恐ろしいことなのだ。

最高裁が言っていることをそのまま書く場合も、先生に習ったことをそのまま書く場合も、それに自分が深く納得している場合であってさえ、それが本当に正しいかどうかは分からないのです。間違っているかもしれないと思えばこそ、その妥当性をできる限り確かめるために、たくさんの言葉を書き連ねることになり、それが結果的に人を納得させることにもなる(そして致命的な不正を回避することにもつながる)。

公の秩序というものは、深い懐疑を内面化した人々(これが識者の定義ですね)の議論を通じて形成されるものである。法曹というのは、職業的にその議論を担う人々であり、ロースクールはその能力を涵養するところである。活発に思考して下さい。

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