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「疫学的因果関係」の誤解―疾患原因の科学的証明とは

「医学的根拠」が盛大に誤解されている、という本を読んでびっくりした。法学にとっても非常に重大な問題であると思われるので、私の理解したところを説明させていただく。私が無知なだけならよいのだが、そうではなさそうである。

(以下引用を含めて全面的に 津田敏秀『医学的根拠とは何か』(岩波新書、2013年)*)
  *ただし必ずや誤解があると思うので気づいた方は教えて下さい。

日本の裁判所は、疾患の原因について、次のように述べている(類似の判示は一般的です)。
「疫学調査の結果算出される相対危険度及び寄与割合は、集団を対象とし、疾病と要因との間の一般的な関連性の程度を定量的に表現するために算出されたものであり、曝露群に属する特定個人の疾病発生原因を判定することを目的としたものではなく、したがって、これらの数値のみによって個人の疾病罹患原因を判定することはできないものというべきである。」(東京高判平成17年6月22日)

法学研究者もつぎのように書いている(私もまったくこのように理解していました)。
「疫学的因果関係の特質は、集団現象としての疾病についての原因を記述するのみであり、その集団に帰属する個人の罹患する疾病の原因を記述するものではないという点である。換言すれば、疫学的因果関係が認定できたとしても、具体的な個人の罹患した疾病の原因が何であるかは、そこからは直ちに導き出すことはできないのである」。
    (新美育文「疫学的手法による因果関係の証明」ジュリスト866号or 871号)

私に関していうと、疾患に関して因果関係が分かるということは、メカニズムが分かるということだと何となく思っていた。疫学研究というのは、そのようなメカニズム解明に向けて、仮説を立てるために存在しているのだ、と(これも何となく)思っていたような気がする。こういった考え方は、日本では医学界も含めてかなり普及しているようなのだが(津田氏は「メカニズム派」と呼んでおられる)、これは全くの誤解で、両者の関係は正反対だそうなのである。

個人の身体において、「タバコを吸ったことが肺がんの原因であったか」を明らかにするためには、その人について、まったく同じ条件の下で、タバコを吸った場合と吸わない場合で身体に起こる変化を観察する必要があるが、そんなことは不可能である。

これは動物実験などでメカニズムについて仮説が立てられていた場合でも同じで、ある人において、「タバコを吸い続けた」事実と「肺がんが発生した」という事実が観察され、動物実験においては両者に関連があることが知られていたとしても、その人の身体において、前者が後者を引きおこした事実は証明できない。

「メカニズム派」としては、「当該個人」が無理でもせめて「人」におけるメカニズムを、と考えたくなるが、発がんの原因物質と目される物質を人体に投与した上に、大勢の人についてまったく同じ条件で生活させるのは倫理的にも実際上もありえない。結果が出るまでに時間がかかりすぎるという問題もある。

そうすると、人について疾患の原因を解明するためには、なるべく多くの人を一定の条件で揃えてグループ分けし、比較対照して確率の差を割り出すしかない。疫学研究である。ふむ、確かにそうですね、と私は思うが、大丈夫だろうか。

「Evidence-Based Medicine」というのは、臨床研究のデータ分析以外に医学が証拠として依拠しうるものはない、という宣言であるそうだ(私は単に「直感で判断するな」という標語なのかと何となく思っていたが、そうではなかった)。

1992年の論文「Evidence-Based Medicine:A New Approach to Teaching the Practice of Medicine」(マックスマスター大学ガイアットほか EBMワーキンググループ)の冒頭の言葉が引用されている。

「根拠に基づいた医学は、直感、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理づけを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を受容しする。」

先に引用したような、法学の「疫学的因果関係」の理解は、疫学的な分析以外に、個人の疾患に対する因果関係を明らかにする何らかの証明手段が存在するという前提に立っている。しかし、実際にはそのような手段は存在しない。したがって、疫学が提供する統計学的な差を因果関係の証拠として認めないということは、因果関係判断において科学的証明を証拠として認めないことにほかならない、ということなのである。「疫学の結果を個人の因果関係に適用できないと主張することは、一般法則が個々の観察データに適用できないと言うことと同じである」(津田・82頁)。これはちょっと、大変なことではないだろうか。疫学的な証明を否定した場合、おそらく、裁判所が実際に採用するのは直感的判断だ、ということになるはずだ。

動物実験等によるメカニズムの解明や、臨床経験は、人の疾患原因についての仮説の構築に役立つものである。しかし、それ自体は、人の疾患原因の直接的な証拠となるものではない。それらをもって「個人の因果関係」を判断することは、直感的判断でしかない。「そうなのか!」と私は法学者として非常に驚き反省したが、そうした直観的判断が跋扈しているのは医学の世界でも同じだという。

日本の医学界は動物実験等によってメカニズムを知ることに強いこだわりがあり、疫学研究で(例えば発がん性の)証拠がはっきり示されていても、発がん物質としての認定が見送られる傾向があるという。胃がん対策としてのピロリ菌除菌措置の遅れも、水俣病の原因食品である水俣湾産の魚の摂食規制ができずに被害を拡大させたことも、乳児突然死症候群防止のためうつぶせ寝に警告を発するのが遅れたことも、この点と関係があるという。

何日か前に、厚生労働省の子宮頸がんワクチン検討会が、ワクチン接種後の痛みについて、ワクチンの副作用ではなく「心身の反応」であると結論したという報道があった。同時に、海外の複数の研究者が「ワクチンが原因である可能性が高い」と述べたが(違う意見の海外研究者もいたそうである)、日本の医師らは「科学的証拠が乏しい」と否定した、とも報道されていたので、これもひょっとして「メカニズム派」の判断なのかと疑ってしまう。事情が分かる方がいらしたらどうか教えて下さい。

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法学者は何を研究しているのか(2・完)

日本というのはとても変わった国で、放っておいても、みんなが他人の都合とか全体の方向性とかを慮って、何となく同じように行動してしまう。「忖度する」なんて言葉、日本以外にもあるのだろうか(ひょっとして若者は知らない言葉かもしれないが、法律家になるなら調べて下さい。「そんたく」です)。

こうした「忖度」文化が、普段の人付き合いにおいて発揮されているだけなら、まだ美しいような気もしないことはないが(嘘です。本当はしません)、国家権力との間でもほとんど同じであるのは、やはり問題だと思われる。

審議会などで議論をしていると、その場にいる委員のほとんどは、「国家と一心同体」である。「秩序の維持は国の規制によって行うべきだ」という前提に立ち、国家の側に立って、「どういう規制を作ろうか」と考えている。権力的な地位にある人が多いので割り引いて考える必要があるが、患者の代表として参加している人などでも、その点は大体同じである。もちろん、私は法学の立場でそうした会議に参加しているわけであるから、それを黙ってみているわけにはいかない。そこで、法学的にはごく標準的な立場を前提に、「その事項に関してはそもそも国には規制する権限がありません」などと発言すると、その場の空気がしんとなり、孤立無援の革命家があらわれた、といった趣になる(もう慣れた)。

独裁を防ぐために国家権力を法の下に置く必要がある、ということは、一般論としては理解してもらえるのだと思う。しかし、日本はなにしろ放っておくと自然に「理想の社会主義国」のようになってしまうような社会なので、誰か(特定の権力者)に支配されている、という感覚がなく、急に「国家権力が…」とかいわれても、全くピンとこないのだろう。私も日本で生まれ育った者であるので、その辺りは一応理解できる。

では、そういう日本では、「独裁」に類する状況での大規模な人権侵害、といった事態が生じないのか、というと、決してそんなことはない。敗戦の前のことは、「誰かが悪かった」ということで処理されているが、日本の人たちは、国家の指導層にとって都合のよいことを、命令される前に、指導層の期待よりはるかに徹底的に実現しただろう。同じことは、アメリカが占領しに来たときにも起こり(もしかして続いており)、行政が科学研究に対して「ガイドライン」を策定したときにも起こっている。われわれがそのように行動してしまう国民である、ということは、もう少し自覚され、反省されてよいと思われる(日本の「おもてなし」精神は、明らかに「お上の意向を忖度する」文化と同根ですよね?)。

日本の人たちが、国家、というか共同体に対する素朴な信頼感を持ち得ているのは、ある時期には幸せなことであったかもしれないが、危険なことである。そして、少なくとも現在の日本では、幸福感にもつながっていないように思う。

このままではうまくいかないと分かっているのに、「みんな」がどこに行くかが分からないので身動きが取れない。「みんな」と違うことがしたいけど、何となくしてはいけないような気がしてできない。それは相当に息苦しい社会である。教師として若い人を見ていてもいつも思う。そんなに周りに合わせなくてよいのに。しかし、そのような社会であることの明確な自覚がなければ、逃れる術もないだろう。そのうえ、「イノベーションを担う人材であれ」「人と違う意見を言え」などと求められるのだから、完全にダブルバインド(二重拘束―二つの矛盾した命令が強要されている状態)である。まともに受けたら、引きこもるしかなくなってしまう(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)参照。この本とてもいいですよ。若い人たちにとくにお勧めします)。

日本において、共同体と対峙する「個」の発達がとりわけ乏しいのはなぜか、というのは大それた問題設定であるが、「苦労が足りない」ことは関係していると思われる。日本だって戦争や災害で大勢の人が不遇の死を遂げたり、十分に苦労はしてきたじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、共同体とその成員を深く傷つけるのは、その種の被害体験ではない(被害体験はむしろ共同体意識の涵養につながりますね)。歴史の教えるところ、共同体に決定的なダメージを与えるのは、共同体内部での激しく執拗な争いであり、殺し合いである。ヨーロッパは宗教戦争で、アメリカは南北戦争でこれを経験している。個人の人格を尊重する態度、理性による問題解決を信じる態度、寛容の精神(いずれも近代法の根幹をなすものである)は、集団的な信念が恐ろしい被害をもたらしてしまったことへの反省として生まれてきたものだといわれている(と思う)し、そうだろうと思う。

先にも書いたように、人間は共同体の中で生きる動物であり、共同体の存在自体は前提とせざるを得ない。そして、この規模の共同体を維持するのに、国家という仕組みは、さしあたり、必要なものであろう。しかし、集団が秩序を維持していこうとすると、うっかり集団主義が発達し、集団同士で殺し合ったり、内部の者をリンチしたり、戦争を仕掛けたりしてしまう。そういうものなのである。この種のことは、今だって、そこら中で普通に起きている。

共同体の秩序は保ちつつ、そのような事態を防ぐにはどうしたらよいのか。そのための仕組みを研究してきたのが法学である。はっきりいえるのは、権力を特定のところに集中させるとよくない、ということで、そのためには、秩序の維持を国任せにしない態度が絶対に必要である。自由になるということは、一言で言えば、自分たちのことに関して自分たちでルールを作れるようになる、ということであり、それが、市民が長年かけて獲得してきた「自由」の中身である。「公的なことは自分たちが選んだ王様にお任せして、庶民は好き勝手にやらせてもらいます」というのは市民的な自由ではないし、民主的な社会の在り方でもない。日本では、「王様」がしばしば「世間」だったり「みんな」だったりするので、その非民主性が見えにくいが、構造は同じである。

具体的に言いましょう。世間で何か問題が起こった、あるいは起こりそうである(食品偽装とか、いい加減な遺伝子診断とか)。そのようなとき、ニュースのコメンテーターは大抵「国の規制に不備がある」「国の規制が必要だ」と発言する(専門家が出てきてそのようにいうこともある)。これが正に、「公的なことは王様にお任せする」態度である。

「問題」は起こらない方がよいです。もちろんです。しかし、問題解決を安易に国に委ね続ければ、国の権力は肥大し、権力者はいつの間にか法より上に立ち、個人の人格を(例えば研究の自由を、表現の自由を)尊重しなくなる。安倍首相はよく口約束をしますが(「私が間違えなく実行します」「国民の皆さんの人権が侵害されることのないよう適正に運用します」)、これは法ではなく安倍氏個人(人)が国を支配しているのだ、と彼が理解していることを示している。すごく危ういです。

(アメリカ政府による盗聴が問題になったとき、オバマ大統領が、私が口約束をしても意味がないから立法により明確な制限を設ける、というような趣旨のことを言っていたのと正反対の態度である。真っ当なことをいうなあ、と思ったのに忘れてしまったので、もし知っている人がいたら教えて下さい。)

生物系、医学系の研究について、研究者自身、研究者コミュニティによる秩序維持の可能性を探り、サポートし、国の規制をギリギリ必要な範囲に止める策を考える、という仕事が、法学の研究であり、実践であり、また若い人たちがもっとのびのび暮らせる世の中を作るためにとても大事なことである(と少なくとも法学は思っている)ということが、お分かりいただけるであろうか。

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法学者は何を研究しているのか(1)

長い間医学系研究者の方々と仕事をしているが、まだ法学がどのような学問なのか、ということはよく理解されていないと感じる。「世の中のルールに詳しい人」などと思われていると業腹なので(そんな人と友達になりたくないですよね?)、是非とも説明をさせていただきたい。

一言でいうと、法学は、個人と共同体の関係、「個人と共同体の折り合いをどのようにつけていくと安寧に暮らせるか」を研究しているのである。

人間は共同体を作って暮らす生き物であるから、共同体の存在についてよいとか悪いとかいっても始まらない。共同体の存在を前提として考えると、共同体の中で暮らしているのは個性のある人々であるから、個人の利益と共同体の利益が相反したり、他の成員との間で利害が衝突したりすることが当然に発生する。その利害をどのように調整すれば、個人が自由にのびのびと行動できてしかも秩序のある共同体を維持できるか。これが、法学が向き合っている課題である。(どうですか。やりがいのありそうな課題でしょう?)

よくある誤解は「国家が国民を支配・統制するためにどのようなルールを作ればよいかを考えるのが法学者である」というものだが、これほど腹立たしい理解はない。様々な経験をへた結果、法学が一番に気を配るようになったのは、「権力から市民を守る」ことなのである。それなのに、「市民を縛るルールを喜んで作っている人」と間違えるなんて、あんまりではないですか。

横暴な権力者はフリーハンドを欲しがるし、フリーハンドを獲得した権力者は横暴になる。これはほとんど自然科学の法則みたいなものである。そのため、横暴な権力者によって社会が攪乱され、人々の自由が奪われるのを防止するための仕組みが、長年かけて作られてきた。国を支配するのは人(権力者)ではなくて法である(法の支配)という考え方に立って、憲法によって権力を制約する仕組みもその一つである。憲法が表現の自由や学問の自由を保障しているのもそうで、(国家の意向から)自由な表現活動・学問研究は、共同体の健全な運営にとって死活的に重要なことであるが、これらはとくに権力が関心を持ちやすい領域であり(NHKに対する政権の関心を見れば分かりますね)、銘記して保護する必要があるからである。

再生医療法が再生医療等に対して(国による審査ではなく)再生医療等委員会による審査を義務づけるに止めたのは、国が学問研究の内容に直接触ることを避けるためである。もし国が、「その研究には意味がない」「存在するリスクに見合うだけの効果(学問的意義)はない」といってその医療・医学研究を却下するなら、それは「検閲」と同じ意味を持つ。それではまずいので、「再生医療等委員会」というアカデミアを代表する組織に審査を委ね、学問共同体による自律によって秩序を保つ、という方法が選択されたのである。

「自律に委ねる」という仕組みが取られたこと(あるいはそれを支持した私など)に対しては、「性善説だ」という批判が度々なされた。自主的にルールを守ってくれるなんて、そんな人ばかりではありませんよ、と。

そうではない。何しろ私は刑法学者であるから(あんまり理由になってないけれど)、世の中にルールを守らない人が大勢いることはよく知っている(むしろ皆が守るようでは気持ちが悪い、と思うくらいである)。普通の人がつまらない理由でどれほどおそろしい所業に出ることがあるか、ということもよく知っているつもりである。

私たちは「人々は大体遵法的だ」などとは思っていない。そうではなくて、「権力にフリーハンドを与えたら大変なことになりますよ」と思っている。すなわち、「権力性悪説」に立っているのである。(つづく)

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採点を終えて(期末試験)

学生の皆さん。ちょっと周りを見回して、コップがある人はコップを、友達がいる人は友達を見て下さい。

皆さんはどうやって、それを「コップ」であると認知していますか。ガラスでできているから、ですか? では、なぜそれは「ガラス製の湯飲み」ではなくて「コップ」なのでしょう。「小ぶりな植木鉢」とか「凹んだ皿」でもなく?

人がいる人は、どうやってその人を「Aさん」と認識しているのか、考えて見て下さい。ああいう髪型で、目の形がこうで、身長がこのくらいで…といろいろあるかもしれません。しかしおそらく、その人の髪型が変わったり、サングラスをかけたり、高さのある靴を履いたりしていても、その人を「Aさん」と認識することはできるでしょう。どういうことか。おそらく、私たちは普段、ものすごく沢山の情報を総合して「Aさんの本質」みたいなものを捉えているので、多少外形が変わったからって、Aさんを認識できなくなることはないのだ、ということでしょう。

もしかして、すごく急いでいたり、慌てていて「赤い髪がAさん、赤い髪がAさん…」と思って探していたら、髪を黒く染めてやってきたAさんに気がつかないことがあるかもしれません。この場合でも、落ち着いてよく見れば、「やっぱりAさんだ」ということは、誰でも分かるはずです。ね。

私が何を言いたいのか。もうお分かりの方もいるかもしれません。

今回の経済刑法の問題では、非常に多くの方が、背任の成否を論じていました。幹部会の決定を介して第三者にお金を振り込んでいる、というその部分の現象を見ると、「よし。横領と背任だ。それで、幹部会の決定に基づいてその口座から振り込まれているんだから、背任だな」となるかもしれません。

冗談じゃありません!その判断は、コップを見て、「これは湯飲みの形をしていてガラスでできているから、ガラス製の湯飲みだ」というのとまったく同じです。

詐欺かも?と思ったが、それを打ち消した、という人もいたようですね。それは、たとえていうと、「何かちょっとAさんみたいだけど…でも髪が黒いからAさんじゃないはずだ。髪が黒いのはBさんだから、Bさん、てことにしておこう」というのと同じです。

要するに、一言で言うと、ばかげています!

* * *
試験後に何人かの人と話をしたが、落ち着いて考えればみんな分かるのである。「言われてみるとそうですね」。どうやればこうした馬鹿げた推論を回避できるのか。

論点を詰め込んで勉強していてそれを吐き出しているからそういうことになるのだ、というのはそうだろう。しかし詰め込み勉強もある程度は必要なので、詰め込んだ知識と常識を共存させる術を編み出す必要がある。

最後の「何かちょっとAさんみたいだけど…でも髪が黒いからAさんじゃないはずだ。髪が黒いのはBさんだから、Bさん、てことにしておこう」という例が分かりやすいかもしれない。「Aさんの髪は赤い」「Bさんの髪は黒い」というのは、Aさん、Bさんを識別するために有用な一つの情報である。しかし「髪が赤ければAさん」「黒ければBさん」という話でないことは明らかであろう。Aさん、Bさんという人格にはもっともっと豊かな実質があって、私たちは通常その実質に直にアクセスしている。髪の色、というのは、役には立つけれど、その実質から見れば些末な一つの情報に過ぎない。

犯罪構成要件とされている各要素や犯罪の識別に関する各種情報というのも、言ってみればそのようなものにすぎないのである。それらは、客観的に犯罪を識別するための指標として開発されてきたものであるけれども、部分的な情報(髪の色とか)によって全体(Aさん)を捉えるという方法には、絶対的な限界がある。そうした指標を用いた判断は、つねに、「落ち着いて考えてその本質を捉える」という総合的・直覚的な判断に補完されなければならない。というより、そうした指標の方が、総合的・直覚的な判断を補完するものだ、と私は思う。そういうわけなので、いろいろな要件や情報を身につけるときは、ただそれを理解して丸暗記する、というだけでなく、これはどういう犯罪なのか、その本質にアクセスしようとすることが大事である。別に難しいことではない。イメージを掴む、という程度のことだ。

試験の時に落ち着いて考えている余裕なんてありません、と思いますか?いやいや。そんな人こそ、試してみる価値があります。何しろ「直覚」できてしまうのだから、時間は全くかからない。一瞬でできるのです。それを身につけた知識でもって検証していく、というのが順番です。

この話は前回の「抽象化」と深く関係していますね。

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抽象化

人の名前が覚えられない。固有名詞は基本的に覚えられず、よく考えると一般名詞と固有名詞の境はさほどはっきりしないので、一般名詞がいつ失われてもおかしくない、という危機感も常にある(例えば「水」とか「紙」とかは大丈夫だと思うが、「はさみ」のレベルだと危ない気がする)。それは自分の物事の認識の仕方と深く関わっていて必然的であるように思えるので、別段覚えようという努力はしないのだが、世間では名前を覚えないのは失礼なことだと認識されているようなので、「すみません、すみません」とペコペコしながらやり過ごしてきた。

そうしたら、森博嗣さんが「忘れることは、抽象化の一つである」と書いていて、膝を打った。森さんは一般に「物忘れが激し」く(私も同じだ)、固有名詞に関しては「本当に親しい友人でも、名前がぱっと出てこないことがある。毎日会う人くらいだと、なんとか覚えていられるけれど、半年に一度くらいの人は忘れてしまう」。そして「自分が指導した学生たちも、誰一人名前を覚えていないといっても過言ではない(自慢でもない)」、と書かれているが、これは私もまったく同じである(自慢でもありません)。しかし顔も人柄も覚えているので、その人のことを忘れているわけでは決してない、というところも同じである。

森さんはこれを「具体的なものを忘れて、抽象的なものが頭に残っている状態」、すなわち「抽象」である、として積極的な意味を認めている。例えば、名言を読む場合、名言を暗記して人に伝えることよりも、「自分がそれをどう感じたのか、その言葉がどんなイメージなのか、ということの方が実は大切」である。物事の具体的な部分(名前や名言)に目を奪われているのは、本質を見失っている状態であって、良い傾向ではない。

そうだそうだ!
学生さんにはずっと「名前は覚えないが無関心なわけではないから傷つかないで下さい」「人柄は良く覚えているのだから何の問題もないでしょう?」と言い続けてきたが、これからは「皆さんも、名前が覚えられない、という境地を目指したらどうですか」と言おうと思う。

*森博嗣『常識にとらわれない100の講義』(だいわ文庫・2013年)

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専門の罠

むかし小澤健二さんが「ありとあらゆる種類の言葉を知って何もいえなくなるなんて、そんなバカな過ちはしないのさ~」とうたっていて激しく共感したものだが、このブログを始めてみて自分もそうなっていることに気がついた。大変だ。

世間の目を気にして、専門の観点から言うべきことだけを書こう、と思ったのが大きな間違えであった。世間では、というか何らかの専門をもって世に出ている人々の間では、専門家として言えることしか言わないということが一種の美徳というか専門家の矜持というか専門家として責任のある態度であると思われている節があるが、間違っていると思う。

「専門家として言えることだけを言う」というのは、一般には、その専門領域において確立し承認されている命題や理論によって説明可能なことだけを専門家的真実と見なし、その真実だけを語るという態度のことである。震災後の原発事故のときに東大とかの原子力の人々が語っていたのが正にこの専門家の言葉で、私はあの統制の取れた専門家ぶりにある意味で感嘆したが、法学者もああいうのは大得意である(私はさほど得意ではないがある程度はできる)。

この種の「専門家的真実」は、存在意義はもちろんあるのだが、しかし非常に危険なものなので、取扱いには十分に注意しなければならない。

専門家的真実の危険である所以は、それが宙に浮いていて、誰かがその身体でもって真実性を保証するものではないところにある、と思われる。そういう形でなければ得られない真実というのもあるので、これは一定程度は必要なものである。しかし、とくに一般社会に対してこの立場から発言するのはほとんどの場合に適当ではない。理由は単純で、世界も人間も専門の観点から分けられるものではないからである。「専門の観点からはこうです」なんて言ったところで、本当に、何の役にも立ちはしない。

社会に対してなされる発言は(学術の場でも大体はそうではないかと思うが今回は措く)、発言する個人の人格(身体や日々の暮らしにおける実感)を通して出てくるものでなければならないと思う。そうすることで、どうにか、世界や人間に接続しうるだけの全体性というか統合性が得られるかもしれないから。もちろん、その発言は専門性によって正しさを保証されることはない(他方、専門的真実の危険さは、実はその場面では何の役にも立たないにもかかわらず、専門性によって正しさを保証されてしまうところにある)。正しさを担保するのは発言する人の身体であり生き方であり、だからこそ、妥協の余地すなわち議論の余地もあるのである。

もう一つ、専門家的真実には邪悪といってよいくらい危険なことがあって、それは、その専門家が良心的であればあるほど、「別に自分が言わなくてもよい」「自分にはいう資格がない」と思ってしまうということである。専門家的真実の探究にはきりがなく、世界との関連性を失ってどっか行ってしまったような「真実」も沢山あるのだが、そういうすべてを自分が見通しているということはないし、すべての先端に自分がいるということもない。そういうことを自覚していると、専門家として語ることなどはできなくなってしまう。

専門は、おそらく、学術という方法で世界に近づくための入り口、とっかかりでしかなくて、後は自分の人格を通してどこまで行けるかが勝負なのだろう。

ということで、これからは専門家として、という枠は外します。
(長い言い訳だったなあ。私もまだ大分世間に遠慮しているのだ。)

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再生医療法後始末と字数

紀要に何か書く必要があったので、再生医療法のことを書いておこうと思って書き始めたらあっという間に20000字に達した。8000字くらいで何とか、と思っていたので自分でも驚いた。ものすごく大急ぎで表面をなでただけのもので、一つ一つの問題を深く論じたわけでは決してない。委員会で許される発言の量は1回にせいぜい2、3回、あまりややこしい発言はしても通らない。議論の俎上に載せることすら不可能な、しかし重大な問題がたくさん放置されたまま法律ができている、ということを改めて認識した。

ブログという形式にも量の限界があることは書き始めて気がついた。レイアウトの工夫をすればもう少し何とかできるかもしれないが、論文のように書くことはできない。Facebookでは量以前に内容がものすごく限定されるので、ブログの方がまだ使いでがあるかと思って始めて見たが、専門家として公に提供できるような情報で、1000~2000字にまとめられるものというのは多くない。近況を知らせるために書いているわけでもないし。メディアとして機能するにはもう一工夫必要だな、と思っています。

量といえば、ニュース番組における識者のコメントが、最近ほとんど民間の研究所(何とか総研、とか)の人で占められているのにお気づきであろうか。おそらく、テレビ局が欲しいコメントを短く提供してくれて、大学の研究者みたいに要領を得ない長いコメントをしたり、事前にチェックさせろとか、発言の趣旨が違うと苦情が来たりとか、そういう面倒もなく、研究所としても宣伝になるし、どちらにとってもよいことばかり、ということなのだろう。どんな重要事項も5秒か10秒で、紙が使われる場合ですら「A41枚」で
すませる社会で、法学のようなタイプの学問をするのは結構空しいことのように思う。

そういうわけで、再生医療法連載のつづきは、近々立教法務研究に掲載されます。ネット上で読めますので、出たら改めてお知らせいたします。

20000字なんて読みたくないですか?そうですよね…

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23andMe続報

23andMeがサービス停止命令を受け、民事訴訟も行われて…となったら、日本で類似のベンチャーを考えていた人たちは軒並み「止めておこう」となってしまうのだろうか。つまらないことである。私自身は自分の遺伝情報にとくに興味がないし(平均よりもない方だろう)、遺伝子ビジネスがどんどん発達した方がよいとも思っていない。しかし、世の中の活気というのは、いろんな人がいろいろなことを試してみることで生まれると思っているので、自分の興味関心にかかわらず、何かをやろうとしている人は応援したい。秩序ばかりあって活気がない世の中なんて面白くない。

そういうわけで、23andMeのサービスは何がどう問題視されたのかを確認しておきたい。規制の体系についてもより詳細が分かりました。

この種のサービスでは、通常の検査と同様の臨床的意義が期待できないのはある程度やむを得ない。その場合、結果の意義が限定的であることを丁寧に説明し、医師等の専門家のサポートをシステムの中に上手に組み込むことが大切だということかな、と私は受け取りました。 

(1)経緯
〇23andMe等のDTC遺伝子検査は当初「antiquity determination」(あなたの祖先を明らかに、みたいなことか?)等を謳ってマーケティングを行うなど、ビジネスモデルがはっきりしなかったので、FDAは様子を見ていた。
〇その後、特定疾患の罹患可能性や薬剤応答性など明らかに食品医薬品化粧品法(the FD&C Act)における「device」のClass3としての規制対象となるサービスを宣伝するようになったため、必要な承認を得るよう指導を開始した(class3に分類されるのはおそらく検査結果が不正確であった場合のリスクに「不必要な予防手術」などの重大な健康被害が含まれるためと思われる)。
〇検査結果の正確性、信頼性、臨床的有意性が販売承認の要件であるが、FDAとしては、これらのサービスの多くは、臨床的妥当性が確立されていない検査情報を提供しているという心証を持っている。
〇FDAはまず2010年5月10日にPathway Genomics Corporation(PGC)に対してサービスを行うには事前承認が必要である旨の書状を送り、PGCはサービスを停止した。
〇2010年6月10日には、同様の書状が、Knome, Inc 、Navigenics、deCODE Genetics、23andMeにも送られた。
〇書状はIllumina社にも送られ、"for research use only"の試薬および装置(したがって臨床検査としての使用についてFDAの承認を得たとはいえないもの)をDTCによる臨床応用のために提供している点を問題視(提供するなら承認を得ろ、ということであろう)。
〇FDAはこれらの業者と話し合いを続け、分析的妥当性及び臨床的妥当性を証明する資料の提出を要求していた。(以下、他の業者のことは分からないので23andMeのみ)
〇23andMeはこれらの資料を提出しないまま、サービス範囲を拡大し、いっそう積極的なマーケティングを開始。
〇停止命令。
〇23andMeは、疾患等の健康に関わる分析結果の提供をストップ。顧客には祖先に関する情報とローデータのみを提供している。顧客の返金要請にも応じている。

(2)臨床検査に関する規制の概要
〇Device(日本語では「医療機器」と訳されるようだが少し違和感があるのでつぎの法改正のところ以外は英語のままにします)は、1976年に明示的に連邦食品医薬品化粧品法(以下the FD&C Act)の対象となった(具体的には、同年の医療機器修正(Medical Device Amendments(MDA))による)。
〇前回書いたとおり、deviceはリスクに応じてclass1、2、3のいずれかに区分される(判断するのはFDA)。IVDs(体外診断用機器in vitro diagnostic devices)の場合、判断の根拠となるのは、主として不正確な試験結果が検知されない場合に患者に対して生じうるリスクである。具体的にはこんな感じ。

Class 1:
・低リスクのカテゴリー。ある種の試薬や装置、補完的IVD試験の多くがこれにあたる。
・補完的試験の場合、判断は他の試験結果に依存するため、不正確な結果は通常容易に検知され、修正されうる、ということで、リスクは低いとみなされる。
・ほとんどのClass 1機器は販売前審査(premarket review)の対象外である(「ほとんどの」というのが気になるがよく分からない)。
・例えばclass 1にあたる黄体ホルモン検査は、誤った結果によって妊娠の遅れをもたらしうるが、直接に患者自身を害するおそれは小さい。
(・ここはまだ調査中だが、おそらく届出だけが必要で、事前審査は受けない。)

Class 2:
・中リスクのカテゴリー。化学試験や免疫試験のような標準的な臨床検査がこれに属する。
・ほとんどのclass 2 deviceは販売前審査(section 510(k) of the FD&C Act。FDAが届出に基いて審査する)が義務づけられる。
・例えばsodium testは誤りが検知されず誤った結果に基づいてsodium levelを改善するための治療が行われると生命を脅かすリスクをもたらしうる。このようなものは、class2 にあたる。

Class 3:
・最高リスクのカテゴリー。潜在的に合理的な範囲を超える疾患・傷害リスクを有するものがこれにあたる。
・例えば、C型肝炎ウィルステストにおいて誤って「感染なし」の結果が出た場合、適切な治療が与えられない結果肝不全を起こすリスクが存在する。さらに、感染を知らないことにより患者が感染源として疾患を拡大するリスクもある。
・販売前承認(premarket approval)が義務づけられる。

〇IVDsの多くはclass 2か3。FDAには、販売前の審査や承認に加え、販売後審査、有害事象のモニタリングの権限、深刻な健康被害が生じた場合にはリコールを命じる権限もある(the FD&C Act)。

〇IVDsの規制は、食品医薬品化粧品法のdeviceとしての規制とCLIAによる施設認証の2つが担っている。

〇CLIA(1988年の臨床試験所の改良に関する修正(the Clinical Laboratory Improvement Amendments of 1988:CLIAも食品医薬品化粧品法の修正なのだ…知らなかった)に基づく審査プログラムを運営するのはCMS(the Centers for Medicare and Medicaid Services)。CMSが認証を担当する機関を承認し、CLIAが認証基準を定め、認証業務はそれらの研究機関が行う仕組み。

〇臨床試験そのものの安全性や効果、質の審査はFDAが、施設のクオリティコントロール等の審査はCLIAに基づいて、という分担。

〇他に関連しうる規制として、連邦公正取引委員会法(the Federal Trade Commission Act(FTCA)に基づく連邦公正取引委員会(FTC)の審査システムがある。FTCAのsection5は取引における不公正ないし偽計を伴う行為(unfair or deceptive acts or practices)を禁止、Section12は食品、薬品、devicesサービス、化粧品の虚偽広告を禁止する。FTCは虚偽ないし偽計的広告については強制的なアクションを起こすことができる。

(3)遺伝子診断についてのFDAの対応
〇遺伝子診断は、疾患等の診断、治療、予防等に用いられる場合はdeviceとしてFDAの規制を受ける。心疾患リスクを判断する場合はdevice、祖先を明らかにする場合はdeviceではない。

〇業者が遺伝子診断用のキットを開発して複数のラボに提供する場合、当局は製品(キット)に対して規制を及ぼす。

〇これに対し、医療機関の検査室等が自身で構築した手法で当該ラボでのみ試験を行うLDT(laboratory-developed test)の場合、データの解釈の方法とか説明の仕方なども勘案して、不正確な結果がもたらすリスクの大きさを元にして規制を行う。

〇FDAはLDTsに対しては、1976年のdevice law成立以来、規制権限を行使していなかった。当初、LDTsは概して低リスクであったため、とされる。希少疾患の有無等比較的単純な内容であること、解釈に携わるのが専門家であること、同一組織内の医師がその結果を利用すること、等により、FDAが介入する必要性がないと判断されていたようである。

〇しかし、FDAは近年LDTsの性格が劇的に変化していると受け止め、介入の必要性を認識している。主な変化としては、
―生活習慣病等の高リスクであるが一般的な疾患や症状の評価に用いられる。
―最新の(ときには未確立の)科学的発見が診断の有効性を基礎づけるものとして利用される。
―結果の分析過程が複雑で、専門家による解釈ではなくソフトウェアによる自動化された解釈が行われる。
―FDAの承認を受けた代替の試験が利用できる場合にも行われることがある。
―患者が治療を受ける医療機関と無関係の商業的なラボで行われることが多い。

〇FDAは近年のLDTsには以下のような問題があると認識している。
・誤ったデータ解析
・臨床的意義の誇張
・不正なデータ操作
・トレーサビリティの欠如
・稚拙な研究デザイン
・受け容れがたい臨床検査能力(unacceptable clinical performance)

〇諮問委員会の答申(2001年、2008年)もあり、現在ではすべての遺伝子検査につき、FDAがその分析的妥当性、臨床的妥当性の審査に関わるべきであると考えられている。

(4)今後の見込み
〇23andMe側は、「分析的妥当性、臨床的妥当性に関して証拠が提出されていないこと」が問題で、「妥当性がない」わけではないので、今後FDAを納得させれば全面的にサービスを開始できる、という態度のようである。
〇しかし、ある専門家は、23andMeのサービスは分析的妥当性は十分備えているが、臨床的妥当性は「poor or terrible」であり、FDAが納得する見込みはないとしている。
〇同じ専門家は、こうしたサービスでは解釈がすべてであり、23andMeの問題点は消費者が解釈に必要な情報や知識を与えられていない点にあるとして、FDAは近日中に現在よりはるかに多くの専門家を関与させる方向でのアプローチを要求するかもしれないとしている(この人の主張でもあると思われる)。

【参考】
・FDAの担当者がDTC(Direct-to Consumer Genetic Testing)について米国下院で報告した内容(www.fda.gov/newsevents/testimony/ucm219925.htm)。
・http://venturebeat.com/2013/12/07/23andme-remains-defiant-despite-fda-issues-we-are-not-going-anywhere-exclusive/

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ヘンなもの

オウムの人たちが大挙して選挙に出馬し教祖の着ぐるみを着て街中を歌い踊っていたとき、それがあまりに馬鹿げているので、ヒマな高校生だった私たちはお腹を抱えて笑って見ていた(関係ないけど銀座の街頭にいた赤尾敏さんとかにも興味を引かれて手を振ったりしていたものでした。すみません)。

もうちょっと責任感のある大人の中には、気味が悪いと感じていた人もいるんだろう。のちに地下鉄サリン事件がおこってオウムの内実は全然面白がっている場合ではなかったことが分かり、私は高校生当時の自分の無責任さや勘の悪さを恥じた。このことは今も反省材料として胸に残してある。

十分な数の真っ当な人間が世の中に適当に配置されているときには、ヘンなものというのは表に出てこない。ヘンなことを考える人は常にいるけれど、世間の常識はそれを鼻で笑って相手にしないから、その「ヘンさ」が組織的な形で行使されるには至らない。したがって、ヘンなものが表立って見えてくるということは、それを許容範囲として受け容れる人間が既に一定数に達していることを意味している。

もちろん、それが「ヘン」である限り、世の中的には、まだそれをおかしいと感じている人間の方が圧倒的に多い。しかし、この段階では、すでに当事者を説得する可能性は失われていることが多いのではないかと思う。その組織は、内部にそれを押しとどめる自浄機構を持っていないからこそ平然とそれを出しているのであり、多くの日本人にとって一番重要な「仲間内」、すなわちその人の「世間」はそれを支持していることになる。そして、公に表に出してしまった以上(これも多くの日本人にとって)それ以降の撤回は論理ではなく面子の問題になる。こうなったときには、それを出してきた当事者とはもはや「話が通じない」レベルの懸隔が生じてしまっている、と見た方がよいと思われる。せせら笑うだけの知性が自分や友人に備わっているのだから大丈夫と思った高校生の自分は断然甘かったし、とくに日本の場合(と私は思うのだが)「話せば分かる」が通用する状況はむしろ例外的である。

例えば自民党の憲法改正草案は十分に「ヘン」のレベルに達している。特定秘密保護法に関する閣僚のコメントなども笑ってしまうものが少なくなかった。そしてそう思っている人が(少なくともある程度物を知っている人の間では)圧倒的に多いことも知っているけれども、私はあまり楽観的になれない。

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民主主義について

民主主義に対して悲観的な書き物が目立つ気がする。いくつかのパターンの論調があるから一言では片付けられないし、国内外を問わない傾向であることも少しは知っている。最近の日本のもの(想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』を読みました)には、昨今の政治に関する動きへの強い危機感が見えて、共感せずにはいられない。

分かる。分かるよ!

もっとも、日本の場合、捨てるも何も、民主主義は根づいたことがないと思われる。「アメリカ人を模倣するとき、われわれは半分だけを取り入れ、他の半分を省略しましたが、この半分こそ、市民が政治について率直に語り合うという文化であり、民主的なるものとして法の形成に貢献しそれを尊重する精神なのです。」

しかし、われわれの世代、すなわち、生まれたときから「日本は民主主義国家です」といわれて育ち、民主的な法制度が完備されていることも知り、とくに法学など学んで、日本は少なくともシステムにおいては欧米と変わらないものを持っているはずだと信じてやってきた者が、いざ社会の中心で活躍する年代にさしかかって世の中を見たときに、「?!」「話が違うぞ!日本って何?全然民主的でないし、法も尊重されてないじゃん!!」と気づいたとすれば(私の場合です)、それは一つの達成であると思うのだ。

親の世代だと、民主主義の何たるかなど分かっていたのは本当に限られた一部の層だけだったと思われる。でも、親の世代が、よく分からないながらも、これからは民主主義で、平等なのだから、われわれ庶民の子供にも教育を与えなくては、と思ってくれたからこそ、今のわれわれがあって、「え、何これ?おかしいよ?」と気づくこともできている。

省略した半分を補填しよう、というのが自分のやろうとしていることだと最近はっきり分かってきた。

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