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遺伝差別禁止法について――不正競争防止法による対応、差別立法の可能性

1 はじめに

ゲノム研究の進展と法的・倫理的課題、といった感じのテーマを考える機会が多く、少しずつ勉強をしてきたが、人の遺伝子解析およびその医療応用等が進むことで、何かこれまで人類が経験したことのない全く新しい問題が生じる、ということはないように思う。ただ、これまで大ざっぱにしか分からなかったことを精密に示しうる、という遺伝情報の特質が、既存の様々な問題に対して拡大鏡のように機能する、ということはありそうだ。すでに社会にある問題がより誇張された形で現れる、というのが、(たぶん)遺伝情報の問題性であり、「差別」はもちろんその一つである。

ゲノムにかかわる人は皆この点を意識していて、「日本も米国のように遺伝(情報)差別禁止法を制定しないと研究が進まない」と訴えられることが非常に多い。普段は、「さしあたりご心配は不要」と言って、下の「公式見解」のみをお伝えしているが、あくまで「さしあたり」なので、その後の展望についても考える必要がある。その部分を含めて、ごく簡単な情報提供をさせていただきたい。

2 公式見解――不正競争防止法による対応

ゲノムの解析情報はデータベース化して共有しなければほとんど意味がない。研究者の方々が懸念されているのは、データベースにセキュリティ対策を施すことは当然としても、誰かが意図して被験者の情報を漏洩し、それが雇用差別に用いられたり、ネットに差別的な書き込みがなされたりする事態は防止できない。そうした場合に対する法的対応が日本ではなされていないのではないか、ということである。

たしかに保険や雇用への遺伝情報の利用そのものを制限するような法律は日本には存在していないし、すぐに作るのも容易でない。アメリカやその他の国は「ゲノム」以前に、(それぞれレベルの差はあれ)差別を包括的に禁止する法律を持っているが、日本はそもそも差別を禁止する法律を持っていない(せいぜい男女雇用機会均等法くらいしかない)。ゲノム研究の重要性がどのくらい認識されているのかもよく分からない日本で、いきなりゲノムに関して差別を禁止する法律を作ろう、というのは現実的とはいえない。

しかし、「差別」の部分で禁止できなくても、「漏洩」とか「目的外利用」が禁止できれば、上のような問題に対応することは可能である。日本では不正競争防止法がこの部分をカバーしており、実は、大抵の行為は既に厳罰の対象になっている。
不正競争防止法21条は、営業秘密の不正取得、不正な使用・開示、横領、義務に反した不消去等の行為を広範に処罰の対象としており、法定刑の上限は10年の懲役および1000万円の併科である。これは窃盗罪や詐欺罪、業務上横領罪等の一般財産犯よりもさらに重い処罰であり、法人処罰(最高刑罰金3億円)、国外犯処罰の規定も存在する。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H05/H05HO047.html#1000000000005000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

「営業秘密」とされるのは、「秘密管理性」「非公知性」「有用性」の3条件を満たす情報であり、顧客名簿等のデータベース、設計図、製法などがこれにあたる。遺伝情報等の情報も、産業上有用性のあるものが秘密として取り扱われている限り、営業秘密としての要件を満たすと考えられる。
ただ、こうしたことが一般にあまり知られていないことはたしかなので、関係者による不正行為を防止し、研究参加者にはある程度安心してもらうためには、データベースを運営する側において、万一情報の不正取得・利用等が行われた場合には直ちに不正競争防止法違反行為として告訴を行う方針とし、その方針を周知することが必要と思われる。

3 差別対策立法への道

そうはいっても、日本に差別一般を禁止する法制度がほとんどない、という事実に変わりはなく、今後様々な形で遺伝情報の利用が進んでいくであろうことがほぼ明らかな状況において、これは大いなる不安材料である。遺伝情報は個人の人間性を詳らかにすることが決してない代わりに、人格に関わらない類型的な性質はかなり明らかにしてしまう(先祖の出身地とか)。これが現実の差別的取扱や嫌がらせにつながらないとは考えにくいが、現在の法律の下で有効に対処できるかは分からない。というか、おそらくあまりできないだろう(断言できないのは勉強していないせいです。すみません)。

日本は1995年に国連人種差別撤廃条約に「加入」(批准ではない)しているが、条約の求める法整備を一切していない。日本で各種ヘイトスピーチ事件が起きていることを受けて立法等の具体的な勧告がなされた後でも、日本政府は「正当な言論までも不法に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の煽動が行われている状況にあるとは考えていない」という内容の報告書を、平然と提出しているのである(2013年1月)。日本政府は、この点についてはびっくりするほど反応が鈍く、まったくやる気を示していない。

京都や大阪や東京の街頭でのヘイトスピーチ事件(ヘイトスピーチってちょっと言葉が格好良すぎる)を報道で知ったとき、いちばん驚いたのは、マスコミがなぜ起きた直後に一面トップ、番組冒頭で報道し、大騒ぎをしなかったのか、ということだった。普通の小学校や商店街で同じようなことが起きたら(例えば外国人が日本人を攻撃したら)、連日トップで報道が繰り返されるはずである。被害の直後にきちんと報道がなされ、しかるべき大きさで扱われ、市民からの強い非難が伝えられれば、被害に遭った人たちがどんなに心強かっただろうかと思うと、本当に腹立たしい。佐村河内氏の事件なんかでマスコミはずいぶん反省したり謝ったりしていたようだったけど、そんなことはどうでもよいからこの件について反省してもらいたい。日本政府は「社会内で自発的に是正していくことがもっとも望ましい」という立場を上記の報告書で示しているのだが、メディアが伝えもしない国で、自発的に是正されるなんてことはあるはずがない。

そういうわけで、日本には差別思想は明確に存在しており、その被害から個人と社会を守るためには立法が必要だと私は思っている(どのような内容の、ということはいずれきちんと示したい)。しかし、同時に、日本政府が過去から現在に至るあらゆる差別を否認しているような状況で、しかもそれに対する批判が決して強いとはいえないような状況で立法をしても(立法自体が難しいのはもちろん)、それが十分に機能することはないだろう、とも思っている。法律は人が使うものなので、運用する人間次第でどのようにもなる。まったく存在しないかのように扱うことだって、ありえない解釈をして趣旨の実現を妨げることだってできる。日本に住む人の相当数が「それはありえない!」と憤って声を上げるような社会にならないと、法律もその力を発揮することはできないのである。

医学系研究者の皆さん、「差別立法」を論じるということは、ある意味で、日本の国が「なかったこと」にしてきたこと、私も含む多くの日本人がはっきりと見ないようにしていることを、全部白日の下にさらして議論をし、何とか前に進もうよ、というようなことなのです。この国は「公然の秘密」を本当になかったことのように扱う技術(なのか…)に長けていて、「なかったこと」にされていることが本当に多く、しかもわれわれはそれを日常的に語る言葉も持ち合わせていない、というような状況なので、これはとてもとても容易でないことであるのです。「立法を」と言われると「簡単にいわないでくれよ!」という気持ちにいつもなりますが、しかし、やらなくてよいことではない。これもはっきりしていることです。では、どのようにすれば、よい方向に向かうのか。これは次回に考えて書く予定です。

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必要なのは医師を免責する法ではない―尊厳死法制化の動きについて

*ブログというより意見書的なものになりました。いずれより見やすい形に整理するつもりですがとりいそぎこの形で。

1  はじめに

「尊厳死法制化を考える議員連盟」(会長・増子輝彦民主党参院議員)が、終末期患者が延命措置を望まない場合、医師が人工呼吸器を取り外すなど延命措置を中止しても、法的責任を免責する「尊厳死法案」をまとめ、今年の通常国会に議員立法で提出する方針を固めた、という報道がなされている。尊厳死法制定は議員連盟の長年の悲願のようであり、現在の政治情勢においてなら実現できるかもしれない、と期待されているのかもしれない。

医師が刑事訴追をおそれる気持ちは分かる。また、終末期においてしかるべき手続を経て人工呼吸器等による治療を中止する行為が処罰の対象となるべきでない、という価値判断も妥当であると思う。しかし、その上で、専門家として述べると、現在の状況では、なされるべき立法は「医師を免責する」趣旨のものではない。この問題をめぐる法的環境の変化については、法学者の間ではある程度理解が共有されていると思うが、一般向けの解説がないように思われるので、刑法学者としてお伝えするべきことをお伝えしたい。

2  最高裁は「法律上許容される治療中止」を認めている

まず、ほぼ確実にいえることは、現行法の下でも、「議員連盟」が免責の対象としている行為(死期が切迫していて回復可能性のない患者について患者の意思に基づいてその治療を中止する医師の行為)が処罰されることは考えられない、ということである。

治療中止行為の許容性については、平成21年の最高裁判例がある(川崎協同病院事件上告審決定(最決平成21年12月7日刑集63巻11号1899頁))http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091209113834.pdf

かなり早い段階で独善的に「自然に死なせるのが本人のためである」と考えて、家族をその方向に誘導するようにして医師が治療を中止してしまったこの事件については、第一審から最高裁まですべてが有罪を言い渡している(殺人罪としての処理が妥当であるかは後で述べる)。しかし、先例として見たときに、重要なのは、この判例において最高裁が「法律上許される治療中止行為」というものの存在を認めた点である。

最高裁は、「被告人が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後、本件抜管時までに、同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず、発症からいまだ2週間の時点でもあり、その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかった」こと、加えて「被害者は、本件時、こん睡状態にあったものであるところ、…抜管は…家族からの要請に基づき行われたものであるが、その要請は…被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく、…抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない」ことを理由に、「法律上許容される治療中止」としての正当化を否定した。この事件では、患者が終末期にあることも、患者に治療中止の意思があることも、どちらも適切な手続によって確認されていない、ということが、有罪と認定する理由となっている。これは、裏を返せば、適切な手続を経てこれらが確認された場合には正当化が認められる余地があることを、最高裁が肯定した、ということにほかならない。

これまで、医師による治療中止行為が裁判で争われたことはなく、この点について最高裁がどのような立場に立っているのかは明確ではなかった(東海大安楽死事件では、最後に心停止作用のある薬を投与した行為だけが起訴されたので、その前に行われた治療中止は直接の争点ではなかった。横浜地裁は治療中止行為についても一定の判断を示したが、一審で確定したため上級審の判断はなされなかった)。その間、とくに医療の世界では、「治療をしないことは不作為だから処罰されないが、すでに開始されている治療を中止するのは作為だから犯罪になる」といった生半可な法解釈(すみません…でもそう思う。しかしこの状況に真剣に向き合わず解釈を正さなかったのは法学者の責任である)が浸透し、医療現場では、本人も家族も医師も、誰もよいとは思っていないのに治療を中止できない事態がしばしば生じていたと聞く。このような中で、最高裁が、治療中止という「作為」を正当化する可能性を認めたことは、非常に大きな意味を持つことなのである。

3  手続についてはガイドラインがある

上記最高裁は「法律上許容される治療中止」の存在を認めたが、その要件を具体的に示すことはしていない(これには不満の声もあるであろうが、治療中止の許容要件は衆知を結集して議論されるべき事項であり、要件を示さなかったのは裁判所の見識である)。しかし、この点については、すでに相当信頼に足る議論の蓄積がある。

川崎協同病院事件や射水市民病院事件では、医師が自分一人の判断で治療を中止していたことが、問題の大きな要素を占めていた。そこで、これらの事件を教訓に、行政や医学会において、終末期の治療方針を決定する際の適正なプロセスを検討する動きが活発化し、厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年5月)、日本救急医学会「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)(2007年11月)、日本小児科学会「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話合いのガイドライン」(2012年4月)、日本老年医学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン―人工的水分・栄養補給の導入を中心として」(2012年6月)等に結実している。川崎協同病院事件以降、殺人罪で立件されうるような事案が表れていないのは、これらのガイドラインが事態の改善に寄与したためと考えてよいと思われる。

これらのガイドラインは法律ではない。しかし、これらは、患者の病状を適切に評価し患者の意思を尊重するために医療者が従うべき最善のプロセスを示すもの(少なくともそれを目指すもの)であり、これらに従ってなされた治療中止行為が起訴され有罪とされることは事実上考えられない。プロセスに関するガイドラインが示されたことに加え、最高裁が「法律上許容される治療中止」の存在を明確に認めたことによって、しかるべき手続を踏んで行われた治療中止行為が法的責任を問われる蓋然性は限りなくゼロに近づいたといってよい。

したがって、医療関係の方々には、法の威嚇に怯えることなく、よりよい終末期医療を目指して議論と実践を重ねていただきたいと思う。そうして不断にガイドライン類が改良されていくことが、より安定的な秩序を形成していくための最善の方法である。

4  どのような立法が必要か

繰り返しになるが、現行法の下でも、適切な手続にしたがってなされた治療中止行為が法的責任を問われることは考えられない。その点では、お医者さんたちには安心していただいてよい。ただ一点、不安定さが残るのは、ガイドライン等が定める手続に違反して行われた治療中止行為の扱いである。

終末期医療に関する特別の法制度がない現状では、手続に問題のある行為は、殺人罪として訴追されることにならざるを得ない。前項で述べたように、上記の各種ガイドラインは、「医療者が従うべき最善のプロセス」を示す趣旨のものであるから、それに反したからといって直ちに犯罪として扱うのは妥当ではない。しかし、殺人行為を正当化する事由として「治療中止」が議論され、その正当化要件には各種手続が含まれるという判断を最高裁がしていることを前提とすると、検察官は手続違反を殺人罪で起訴せざるをえないであろうし、裁判において有罪とされるおそれも否定できない。

もちろん、死期の切迫性や回復不能性が明らかに認められないとか、本人の意思に反しているとかいう場合には、殺人罪の成立が認められるべきである。しかし、死期の切迫性の判断を医師が単独でしてしまった、といった手続違反を、いきなり殺人罪で処罰する、というのは穏当ではないと思われる。

この問題は、終末期医療における意思決定を適切に行うためのプロセスを定めた法律を作り、重要な手続の違反に対して罰則を設けることで解決できる。そのような特別法があれば、死期の切迫性や本人意思を欠いていたことは証明できないが、重要な手続違反があった、という場合、医師は特別法違反の罪に問われるに止まり、殺人罪で起訴されるのは、実体として治療中止がなされるべきでない状態の患者の治療が中止された場合や、本人の意思に反して中止された場合等に限られることになる。

終末期医療が「問題」化する根本的な原因は、患者側(国民一般)の医師に対する不信感にある。「患者のリビングウィルがあれば医師は免責される」といった制度を設け、医師にある種自動化された判断を許すなら、医師の信頼性はむしろ損なわれる結果になるであろう。現在必要なのは、医療者を支援してその信頼性を高め、患者には安心の材料をもたらすための法制度であって、医師を免責するための法律ではない。

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アンネの日記を破ると建造物侵入罪?

アンネの日記を破ったかもしれない人(以下X)が建造物侵入罪容疑で逮捕された、という報道が昨日あったが、今日は器物損壊罪で再逮捕されたという。器物損壊はともかく、なぜ建造物侵入罪なのか、疑問に思った方がいるかもしれない。そうなんです!これはわが国の刑法解釈が必ずしも穏当に、あるいは条文の趣旨に忠実に、あるいは市民の権利を不当に害しない方向では行われていないことを顕著に示す一例である。私は日本の裁判所は概ね刑法を適切に解釈していると考えているが、この件を思うと「やっぱり日本の司法って信用できないのかも」という気持ちになってしまう。大問題なので、ぜひ多くの方に知っていただきたい。

刑法130条 正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。

これはいわゆる住居侵入罪の規定である。邸宅、建造物、艦船については「人の看守」がある場合、つまり、門衛がいたり扉が施錠されていたりして「入らないでね」という(人の)意思が表示されている場合のみ客体になる。住居等に勝手に入ると処罰されるのは、住居は私生活の場であって、そこに踏み込まれないという利益は、プライバシーの中でももっとも高度な利益であるからである(刑法は住居侵入を犯罪とするがプライバシー侵害行為一般を処罰しているわけではない)。建造物も「人の看守」がある場合には、それに準ずるものと扱われている(この辺りは議論をすると長くなるのでこのくらいにさせていただきます)。

もちろん、人は住居に他人を招くこともあるわけで、住人が「いいよ」といっている場合に犯罪を成立させる理由はない。そのため、住居侵入罪にいう「侵入」は「住居権者の意思に反する立入り」であると定義されることになった。しかし、この定義がある意味で「濫用」されて、同罪の成立範囲はどんどん広がっているのである。

下級審(最高裁以外のこと)の裁判例はかなり前からその傾向を示していたが、平成19年に最高裁判例が出てその方向性が固まってしまった。最高裁は、ATMの利用客の暗証番号を盗撮する目的で銀行の出張所(営業中)に入る行為に建造物侵入罪を認めたのである。

ATMが並んでいるだけの無人の出張所ですよ?
誰に対しても「どうぞお入り下さい」と開かれているところである。例えば、ホームレスの人が入って中で寝るのは銀行からみると問題であろうが、それでも入る行為が「侵入」であるとはいいがたい。ガードマンが来て「出て行け」といってもなお出て行かなければその時点で「不退去罪」が成立する。それが刑法130条の普通の読み方である。

しかし、判例は、盗撮目的での立入りは銀行支店長の意思に反する立入りである、という理由で、(盗撮について業務妨害罪を認め、それに加えて)建造物侵入罪の成立を認めた。この理屈でいくと、万引き目的でコンビニに入って万引きした場合、窃盗罪だけでなく建造物侵入罪が成立することになる。いったい、銀行出張所やコンビニへの立入りそのものによってどのような利益が侵害されているというのであろうか。盗撮は業務妨害で処罰され、万引きは窃盗罪で処罰される。それらの被害とは別に何らかの害が発生しているとは考えられない。管理者はあとでその事実を知れば不愉快に思うかもしれないがそれで犯罪というわけにはいかない。

Xは(日経新聞によると)「アシスタントとゴーストライターは違う」(何だ?)などと書いたビラを貼る目的でジュンク堂書店に入った事実について、建造物侵入罪の容疑で逮捕された。ビラを貼る行為はそれだけでは犯罪ではないが、ジュンク堂はおそらく店内でのビラ貼りを認めていないので(普通の店はそうだろう)、ビラ貼り目的での侵入は(判例の立場によれば)「管理者の意思に反する立入り」ということになる。それで逮捕をしてしまって、取り調べをして(別件です)、器物損壊の容疑で再逮捕、ということであろう。逮捕による身柄の拘束は警察24時間検察48時間の併せて72時間が限度であり、その間に勾留請求をして認められれば10日間(1回は延長可)身柄を拘束できる。別の被疑事実によって再逮捕すればもう一度この手続を続けることができる。どう考えても器物損壊が本丸なのに、あえて建造物侵入を別に立てることによって、長期の身柄拘束が可能になる。建造物侵入が訴追されるかどうかは分からないが、これだけで十分に不当である。

「管理者の意思に反する立入り」がおしなべて建造物侵入であるとすると、「入れ墨おことわり」の銭湯に入れ墨を隠して入る行為は建造物侵入になる。とはいえ、おしゃれのために入れ墨をしている人の入場が発覚したとして、捜査機関が建造物侵入で逮捕することはないだろう。しかし暴力団員であれば分からない。同じ行為をしたときに「普通の人なら犯罪ではないが暴力団員なら犯罪」というのは差別的な取扱いであって不当ではないだろうか。暴力団対策として暴力団員の銭湯利用を禁止する法律があるならまだ分かる(その立法は憲法上許されない気がしますけど)。しかし、処罰に値するかしないかの判断は、捜査機関が勝手にするのである。

これまでのところ暴力団員による銭湯利用やゴルフ場利用に建造物侵入罪を認めた例はないようである(何と驚くべきことに暴力団員であることを隠したゴルフ場利用について詐欺罪は認められているのだ!下級審であるけれども)。しかし、その特定の暴力団員を捕まえたい積極的な理由が何かある場合には、日本の捜査機関は建造物侵入の容疑で逮捕することを辞さないだろうと思う。暴力団員には限らない。「ビラ貼り禁止」という建造物はたくさんある。一般市民が「犬を探しています」というビラを貼っても注意をされるだけであろうが、特定の思想傾向の人がビラ貼りをしていたら、建造物侵入容疑で逮捕されるかもしれない(実際に「共同通信会館」(共同通信社のほか銀行や飲食店、各種商店が入居していて一般人が自由に入ることができる)にビラ貼り目的で立ち入る行為に建造物侵入罪が認められた例がある(東京高判昭和48年3月27日東高刑時報24巻3号41頁))。

刑法学者の多くはこうした実務に反対している。ただ、理論の弱さがこうした拡大解釈を許している面もあり、これは自由に対する罪全般に共通する、結構深刻な問題であると思っている。専門的すぎるのでこれ以上は書きませんが、5月刊行予定の町野古稀に書いたのでご関心のある方はご覧下さい(宣伝になってしまった)。

最初、ジュンク堂でも本を破ったのかと思っていたのでこのようなタイトルになったが、新聞を確認して誤りに気づいた。でも実質はあまり変わらない。

 

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自動車運転死傷行為処罰法

標記法律が成立した(正式名称を「自動車の運転により人を死傷させる行為の処罰に関する法律」というらしい)。

とりあえず新聞報道によると、今まで刑法典にあった自動車運転関連の罪(自動車運転過失致死傷罪、危険運転致死傷罪)が新法に移動し、内容としては、①危険運転致死傷罪の処罰範囲が拡大され(こちらについてはまた今度)、②飲酒(服薬)の影響で交通事故を起こし、発覚をおそれて逃走する行為を犯罪化したという(「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」だそうである。過失運転致死傷罪の加重類型ということなのだろうか)。

①については内容を把握してからコメントしたいが、②については、ぱっと見た段階で反対である。こういうのは正しい罰則の使い方ではないと思う。

想像してもらいたい。飲酒運転をして事故を起こし、動揺して逃げてしまう人間はどういう人間だろうか。これはかなりはっきりしていると思う。バカ(それほど悪い意味ではない)な人間か、弱い人間である。バカな人間、弱い人間を処罰して何かいいことがあるだろうか。刑務所に入れたらバカでなくなり、弱くなくなるだろうか。私はそうは思わない。飲酒運転はよくない(だから飲酒運転に罰則があるのは結構なことである)。しかし、事故は過失によるものなのである。突然自分が人を死傷させてしまったときに、強く正しく美しく行動しなければ処罰される、というのはいかがなものだろうか。

20歳そこそこの学生が、軽い気持ちで飲酒運転をし、うっかり事故を起こして、さらにうっかり逃走してしまう姿を、私は容易に想像できる。未成熟(年齢だけの問題ではない)から来る問題行動に対して、社会から理解と愛情に欠けた仕打ちを受けた者が、その後よりよい人間に育っていくことは、絶対にないとは言わないが例外的であろう(なぜか手元にないが、岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書、2013年)は大変勉強になった)。

自動車運転関連の条文が刑法からごっそり抜けたことは、司法試験受験生にとっては朗報かもしれません。

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