医学研究」カテゴリーアーカイブ

遺伝差別禁止法について――不正競争防止法による対応、差別立法の可能性

1 はじめに

ゲノム研究の進展と法的・倫理的課題、といった感じのテーマを考える機会が多く、少しずつ勉強をしてきたが、人の遺伝子解析およびその医療応用等が進むことで、何かこれまで人類が経験したことのない全く新しい問題が生じる、ということはないように思う。ただ、これまで大ざっぱにしか分からなかったことを精密に示しうる、という遺伝情報の特質が、既存の様々な問題に対して拡大鏡のように機能する、ということはありそうだ。すでに社会にある問題がより誇張された形で現れる、というのが、(たぶん)遺伝情報の問題性であり、「差別」はもちろんその一つである。

ゲノムにかかわる人は皆この点を意識していて、「日本も米国のように遺伝(情報)差別禁止法を制定しないと研究が進まない」と訴えられることが非常に多い。普段は、「さしあたりご心配は不要」と言って、下の「公式見解」のみをお伝えしているが、あくまで「さしあたり」なので、その後の展望についても考える必要がある。その部分を含めて、ごく簡単な情報提供をさせていただきたい。

2 公式見解――不正競争防止法による対応

ゲノムの解析情報はデータベース化して共有しなければほとんど意味がない。研究者の方々が懸念されているのは、データベースにセキュリティ対策を施すことは当然としても、誰かが意図して被験者の情報を漏洩し、それが雇用差別に用いられたり、ネットに差別的な書き込みがなされたりする事態は防止できない。そうした場合に対する法的対応が日本ではなされていないのではないか、ということである。

たしかに保険や雇用への遺伝情報の利用そのものを制限するような法律は日本には存在していないし、すぐに作るのも容易でない。アメリカやその他の国は「ゲノム」以前に、(それぞれレベルの差はあれ)差別を包括的に禁止する法律を持っているが、日本はそもそも差別を禁止する法律を持っていない(せいぜい男女雇用機会均等法くらいしかない)。ゲノム研究の重要性がどのくらい認識されているのかもよく分からない日本で、いきなりゲノムに関して差別を禁止する法律を作ろう、というのは現実的とはいえない。

しかし、「差別」の部分で禁止できなくても、「漏洩」とか「目的外利用」が禁止できれば、上のような問題に対応することは可能である。日本では不正競争防止法がこの部分をカバーしており、実は、大抵の行為は既に厳罰の対象になっている。
不正競争防止法21条は、営業秘密の不正取得、不正な使用・開示、横領、義務に反した不消去等の行為を広範に処罰の対象としており、法定刑の上限は10年の懲役および1000万円の併科である。これは窃盗罪や詐欺罪、業務上横領罪等の一般財産犯よりもさらに重い処罰であり、法人処罰(最高刑罰金3億円)、国外犯処罰の規定も存在する。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H05/H05HO047.html#1000000000005000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

「営業秘密」とされるのは、「秘密管理性」「非公知性」「有用性」の3条件を満たす情報であり、顧客名簿等のデータベース、設計図、製法などがこれにあたる。遺伝情報等の情報も、産業上有用性のあるものが秘密として取り扱われている限り、営業秘密としての要件を満たすと考えられる。
ただ、こうしたことが一般にあまり知られていないことはたしかなので、関係者による不正行為を防止し、研究参加者にはある程度安心してもらうためには、データベースを運営する側において、万一情報の不正取得・利用等が行われた場合には直ちに不正競争防止法違反行為として告訴を行う方針とし、その方針を周知することが必要と思われる。

3 差別対策立法への道

そうはいっても、日本に差別一般を禁止する法制度がほとんどない、という事実に変わりはなく、今後様々な形で遺伝情報の利用が進んでいくであろうことがほぼ明らかな状況において、これは大いなる不安材料である。遺伝情報は個人の人間性を詳らかにすることが決してない代わりに、人格に関わらない類型的な性質はかなり明らかにしてしまう(先祖の出身地とか)。これが現実の差別的取扱や嫌がらせにつながらないとは考えにくいが、現在の法律の下で有効に対処できるかは分からない。というか、おそらくあまりできないだろう(断言できないのは勉強していないせいです。すみません)。

日本は1995年に国連人種差別撤廃条約に「加入」(批准ではない)しているが、条約の求める法整備を一切していない。日本で各種ヘイトスピーチ事件が起きていることを受けて立法等の具体的な勧告がなされた後でも、日本政府は「正当な言論までも不法に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の煽動が行われている状況にあるとは考えていない」という内容の報告書を、平然と提出しているのである(2013年1月)。日本政府は、この点についてはびっくりするほど反応が鈍く、まったくやる気を示していない。

京都や大阪や東京の街頭でのヘイトスピーチ事件(ヘイトスピーチってちょっと言葉が格好良すぎる)を報道で知ったとき、いちばん驚いたのは、マスコミがなぜ起きた直後に一面トップ、番組冒頭で報道し、大騒ぎをしなかったのか、ということだった。普通の小学校や商店街で同じようなことが起きたら(例えば外国人が日本人を攻撃したら)、連日トップで報道が繰り返されるはずである。被害の直後にきちんと報道がなされ、しかるべき大きさで扱われ、市民からの強い非難が伝えられれば、被害に遭った人たちがどんなに心強かっただろうかと思うと、本当に腹立たしい。佐村河内氏の事件なんかでマスコミはずいぶん反省したり謝ったりしていたようだったけど、そんなことはどうでもよいからこの件について反省してもらいたい。日本政府は「社会内で自発的に是正していくことがもっとも望ましい」という立場を上記の報告書で示しているのだが、メディアが伝えもしない国で、自発的に是正されるなんてことはあるはずがない。

そういうわけで、日本には差別思想は明確に存在しており、その被害から個人と社会を守るためには立法が必要だと私は思っている(どのような内容の、ということはいずれきちんと示したい)。しかし、同時に、日本政府が過去から現在に至るあらゆる差別を否認しているような状況で、しかもそれに対する批判が決して強いとはいえないような状況で立法をしても(立法自体が難しいのはもちろん)、それが十分に機能することはないだろう、とも思っている。法律は人が使うものなので、運用する人間次第でどのようにもなる。まったく存在しないかのように扱うことだって、ありえない解釈をして趣旨の実現を妨げることだってできる。日本に住む人の相当数が「それはありえない!」と憤って声を上げるような社会にならないと、法律もその力を発揮することはできないのである。

医学系研究者の皆さん、「差別立法」を論じるということは、ある意味で、日本の国が「なかったこと」にしてきたこと、私も含む多くの日本人がはっきりと見ないようにしていることを、全部白日の下にさらして議論をし、何とか前に進もうよ、というようなことなのです。この国は「公然の秘密」を本当になかったことのように扱う技術(なのか…)に長けていて、「なかったこと」にされていることが本当に多く、しかもわれわれはそれを日常的に語る言葉も持ち合わせていない、というような状況なので、これはとてもとても容易でないことであるのです。「立法を」と言われると「簡単にいわないでくれよ!」という気持ちにいつもなりますが、しかし、やらなくてよいことではない。これもはっきりしていることです。では、どのようにすれば、よい方向に向かうのか。これは次回に考えて書く予定です。

Pocket

各種委員会の委員構成――主に「男女比」について

内閣府総合科学技術会議生命倫理専門調査会の会合があった(昨日)。この会議は大変女性の比率が高く、メンバーの半分くらいは女性なのであるが、昨日は出席者13人のうち6人が女性であった。私は男性が圧倒的に多い会議に参加することが多くてそういう状況には慣れているし、別段それで発言がしにくいと意識したこともない。しかし、昨日の会議は、なんだかとても発言がしやすかったのである。

話題がES細胞関連であったことが一つの理由であろう。ES細胞の利用において受精卵提供者の心理的負担への配慮が必要であることは一般的に理解されていることであるが、どの程度それを深刻に受け止めるかという点において、男性一般と女性一般の間で差異があると感じる(あと、とくに男性の場合は世代差がかなりあると思う。こういう委員会では女性は比較的若いうちに登用されるが男性はそうでもないため、男性の方が年長であることが多い。これはこれで問題である)。

重要な事項であれば、その場の全員が男性であって十分な理解を得られる見込みがない場合でも発言はする。しかし、どこまでも追いかけるかといえばそれはしない。会議におけるコンセンサスというのは、わが国においては場の空気によって形成されるのが通常なので、感覚・感情に深く根ざした議論を要する問題について、前提となる感覚が相当異なる場合、短時間の議論で相手を説得できる見込みはほとんどない(誤解のないように申しますが、時間をかければ相互の理解は可能であると思うし、本当はそのような議論がなされるべきである。しかし残念ながら行政の委員会はそのような議論の場ではない)。そんな中でしつこく発言しても、自分が疲れるだけで―まったく理解されない、あるいはとても重要だと自分が思っていることについて軽くあしらわれることの心理的なダメージは大きい―、その議論自体にとってもよいことはないので、それをする気は私にはない。

現在、ES細胞の臨床応用に向けた議論は、生命倫理専門調査会と、文科省の委員会内WGの双方で行われている(私は両方に参加)。文科省のWGの方は、少人数であることもあって、女性は私一人である。この問題に関しては、正直にいって、後者のWGでは発言を遠慮することがある。ちょっと面倒だな、と思ってしまうのだ。

わが国における「場」の重要性、「場の空気」の重要性を考えると、会議に女性が複数いるというだけでは全然足りない。半分近くはいてほしい。

これは性別以外の属性にも当てはまる話であるが、性別はとくに重要だと思う。女性と男性では、他人の話を聞く態度がかなり大きく違い、それが発言のしやすさに直接的に影響を与えるためである。女性は総じて、発言の中身だけでなく、身振り手振りや表情や雰囲気などを含めて他人の話を受け止めようという姿勢がある。話をする人の顔をよく見ているし、目線や動作によって共感が態度に表れる。聞き手の存在というのはとても大きくて、私の場合、傍聴者の中に共感的な聞き手がいるだけで(男性の場合も女性の場合もあります)話がしやすくなるくらいなのである(傍聴者は委員にいきなり目を見て話しかけられて動揺しているかもしれませんが…)。話をするときに、共感を求めるかどうかも、おそらく結構性差がある。でも男性だって、相手がよい雰囲気で話を聞いてくれている方がよいと思うのだが(でも何か「対立を楽しむ」という感じが一部の男性にはありますよね。あれはちょっと私は慣れられない)。

とくに議長にもっと女性を登用するとよいと思う。

 

Pocket

法学者は何を研究しているのか(2・完)

日本というのはとても変わった国で、放っておいても、みんなが他人の都合とか全体の方向性とかを慮って、何となく同じように行動してしまう。「忖度する」なんて言葉、日本以外にもあるのだろうか(ひょっとして若者は知らない言葉かもしれないが、法律家になるなら調べて下さい。「そんたく」です)。

こうした「忖度」文化が、普段の人付き合いにおいて発揮されているだけなら、まだ美しいような気もしないことはないが(嘘です。本当はしません)、国家権力との間でもほとんど同じであるのは、やはり問題だと思われる。

審議会などで議論をしていると、その場にいる委員のほとんどは、「国家と一心同体」である。「秩序の維持は国の規制によって行うべきだ」という前提に立ち、国家の側に立って、「どういう規制を作ろうか」と考えている。権力的な地位にある人が多いので割り引いて考える必要があるが、患者の代表として参加している人などでも、その点は大体同じである。もちろん、私は法学の立場でそうした会議に参加しているわけであるから、それを黙ってみているわけにはいかない。そこで、法学的にはごく標準的な立場を前提に、「その事項に関してはそもそも国には規制する権限がありません」などと発言すると、その場の空気がしんとなり、孤立無援の革命家があらわれた、といった趣になる(もう慣れた)。

独裁を防ぐために国家権力を法の下に置く必要がある、ということは、一般論としては理解してもらえるのだと思う。しかし、日本はなにしろ放っておくと自然に「理想の社会主義国」のようになってしまうような社会なので、誰か(特定の権力者)に支配されている、という感覚がなく、急に「国家権力が…」とかいわれても、全くピンとこないのだろう。私も日本で生まれ育った者であるので、その辺りは一応理解できる。

では、そういう日本では、「独裁」に類する状況での大規模な人権侵害、といった事態が生じないのか、というと、決してそんなことはない。敗戦の前のことは、「誰かが悪かった」ということで処理されているが、日本の人たちは、国家の指導層にとって都合のよいことを、命令される前に、指導層の期待よりはるかに徹底的に実現しただろう。同じことは、アメリカが占領しに来たときにも起こり(もしかして続いており)、行政が科学研究に対して「ガイドライン」を策定したときにも起こっている。われわれがそのように行動してしまう国民である、ということは、もう少し自覚され、反省されてよいと思われる(日本の「おもてなし」精神は、明らかに「お上の意向を忖度する」文化と同根ですよね?)。

日本の人たちが、国家、というか共同体に対する素朴な信頼感を持ち得ているのは、ある時期には幸せなことであったかもしれないが、危険なことである。そして、少なくとも現在の日本では、幸福感にもつながっていないように思う。

このままではうまくいかないと分かっているのに、「みんな」がどこに行くかが分からないので身動きが取れない。「みんな」と違うことがしたいけど、何となくしてはいけないような気がしてできない。それは相当に息苦しい社会である。教師として若い人を見ていてもいつも思う。そんなに周りに合わせなくてよいのに。しかし、そのような社会であることの明確な自覚がなければ、逃れる術もないだろう。そのうえ、「イノベーションを担う人材であれ」「人と違う意見を言え」などと求められるのだから、完全にダブルバインド(二重拘束―二つの矛盾した命令が強要されている状態)である。まともに受けたら、引きこもるしかなくなってしまう(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)参照。この本とてもいいですよ。若い人たちにとくにお勧めします)。

日本において、共同体と対峙する「個」の発達がとりわけ乏しいのはなぜか、というのは大それた問題設定であるが、「苦労が足りない」ことは関係していると思われる。日本だって戦争や災害で大勢の人が不遇の死を遂げたり、十分に苦労はしてきたじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、共同体とその成員を深く傷つけるのは、その種の被害体験ではない(被害体験はむしろ共同体意識の涵養につながりますね)。歴史の教えるところ、共同体に決定的なダメージを与えるのは、共同体内部での激しく執拗な争いであり、殺し合いである。ヨーロッパは宗教戦争で、アメリカは南北戦争でこれを経験している。個人の人格を尊重する態度、理性による問題解決を信じる態度、寛容の精神(いずれも近代法の根幹をなすものである)は、集団的な信念が恐ろしい被害をもたらしてしまったことへの反省として生まれてきたものだといわれている(と思う)し、そうだろうと思う。

先にも書いたように、人間は共同体の中で生きる動物であり、共同体の存在自体は前提とせざるを得ない。そして、この規模の共同体を維持するのに、国家という仕組みは、さしあたり、必要なものであろう。しかし、集団が秩序を維持していこうとすると、うっかり集団主義が発達し、集団同士で殺し合ったり、内部の者をリンチしたり、戦争を仕掛けたりしてしまう。そういうものなのである。この種のことは、今だって、そこら中で普通に起きている。

共同体の秩序は保ちつつ、そのような事態を防ぐにはどうしたらよいのか。そのための仕組みを研究してきたのが法学である。はっきりいえるのは、権力を特定のところに集中させるとよくない、ということで、そのためには、秩序の維持を国任せにしない態度が絶対に必要である。自由になるということは、一言で言えば、自分たちのことに関して自分たちでルールを作れるようになる、ということであり、それが、市民が長年かけて獲得してきた「自由」の中身である。「公的なことは自分たちが選んだ王様にお任せして、庶民は好き勝手にやらせてもらいます」というのは市民的な自由ではないし、民主的な社会の在り方でもない。日本では、「王様」がしばしば「世間」だったり「みんな」だったりするので、その非民主性が見えにくいが、構造は同じである。

具体的に言いましょう。世間で何か問題が起こった、あるいは起こりそうである(食品偽装とか、いい加減な遺伝子診断とか)。そのようなとき、ニュースのコメンテーターは大抵「国の規制に不備がある」「国の規制が必要だ」と発言する(専門家が出てきてそのようにいうこともある)。これが正に、「公的なことは王様にお任せする」態度である。

「問題」は起こらない方がよいです。もちろんです。しかし、問題解決を安易に国に委ね続ければ、国の権力は肥大し、権力者はいつの間にか法より上に立ち、個人の人格を(例えば研究の自由を、表現の自由を)尊重しなくなる。安倍首相はよく口約束をしますが(「私が間違えなく実行します」「国民の皆さんの人権が侵害されることのないよう適正に運用します」)、これは法ではなく安倍氏個人(人)が国を支配しているのだ、と彼が理解していることを示している。すごく危ういです。

(アメリカ政府による盗聴が問題になったとき、オバマ大統領が、私が口約束をしても意味がないから立法により明確な制限を設ける、というような趣旨のことを言っていたのと正反対の態度である。真っ当なことをいうなあ、と思ったのに忘れてしまったので、もし知っている人がいたら教えて下さい。)

生物系、医学系の研究について、研究者自身、研究者コミュニティによる秩序維持の可能性を探り、サポートし、国の規制をギリギリ必要な範囲に止める策を考える、という仕事が、法学の研究であり、実践であり、また若い人たちがもっとのびのび暮らせる世の中を作るためにとても大事なことである(と少なくとも法学は思っている)ということが、お分かりいただけるであろうか。

Pocket

法学者は何を研究しているのか(1)

長い間医学系研究者の方々と仕事をしているが、まだ法学がどのような学問なのか、ということはよく理解されていないと感じる。「世の中のルールに詳しい人」などと思われていると業腹なので(そんな人と友達になりたくないですよね?)、是非とも説明をさせていただきたい。

一言でいうと、法学は、個人と共同体の関係、「個人と共同体の折り合いをどのようにつけていくと安寧に暮らせるか」を研究しているのである。

人間は共同体を作って暮らす生き物であるから、共同体の存在についてよいとか悪いとかいっても始まらない。共同体の存在を前提として考えると、共同体の中で暮らしているのは個性のある人々であるから、個人の利益と共同体の利益が相反したり、他の成員との間で利害が衝突したりすることが当然に発生する。その利害をどのように調整すれば、個人が自由にのびのびと行動できてしかも秩序のある共同体を維持できるか。これが、法学が向き合っている課題である。(どうですか。やりがいのありそうな課題でしょう?)

よくある誤解は「国家が国民を支配・統制するためにどのようなルールを作ればよいかを考えるのが法学者である」というものだが、これほど腹立たしい理解はない。様々な経験をへた結果、法学が一番に気を配るようになったのは、「権力から市民を守る」ことなのである。それなのに、「市民を縛るルールを喜んで作っている人」と間違えるなんて、あんまりではないですか。

横暴な権力者はフリーハンドを欲しがるし、フリーハンドを獲得した権力者は横暴になる。これはほとんど自然科学の法則みたいなものである。そのため、横暴な権力者によって社会が攪乱され、人々の自由が奪われるのを防止するための仕組みが、長年かけて作られてきた。国を支配するのは人(権力者)ではなくて法である(法の支配)という考え方に立って、憲法によって権力を制約する仕組みもその一つである。憲法が表現の自由や学問の自由を保障しているのもそうで、(国家の意向から)自由な表現活動・学問研究は、共同体の健全な運営にとって死活的に重要なことであるが、これらはとくに権力が関心を持ちやすい領域であり(NHKに対する政権の関心を見れば分かりますね)、銘記して保護する必要があるからである。

再生医療法が再生医療等に対して(国による審査ではなく)再生医療等委員会による審査を義務づけるに止めたのは、国が学問研究の内容に直接触ることを避けるためである。もし国が、「その研究には意味がない」「存在するリスクに見合うだけの効果(学問的意義)はない」といってその医療・医学研究を却下するなら、それは「検閲」と同じ意味を持つ。それではまずいので、「再生医療等委員会」というアカデミアを代表する組織に審査を委ね、学問共同体による自律によって秩序を保つ、という方法が選択されたのである。

「自律に委ねる」という仕組みが取られたこと(あるいはそれを支持した私など)に対しては、「性善説だ」という批判が度々なされた。自主的にルールを守ってくれるなんて、そんな人ばかりではありませんよ、と。

そうではない。何しろ私は刑法学者であるから(あんまり理由になってないけれど)、世の中にルールを守らない人が大勢いることはよく知っている(むしろ皆が守るようでは気持ちが悪い、と思うくらいである)。普通の人がつまらない理由でどれほどおそろしい所業に出ることがあるか、ということもよく知っているつもりである。

私たちは「人々は大体遵法的だ」などとは思っていない。そうではなくて、「権力にフリーハンドを与えたら大変なことになりますよ」と思っている。すなわち、「権力性悪説」に立っているのである。(つづく)

Pocket

23andMe続報

23andMeがサービス停止命令を受け、民事訴訟も行われて…となったら、日本で類似のベンチャーを考えていた人たちは軒並み「止めておこう」となってしまうのだろうか。つまらないことである。私自身は自分の遺伝情報にとくに興味がないし(平均よりもない方だろう)、遺伝子ビジネスがどんどん発達した方がよいとも思っていない。しかし、世の中の活気というのは、いろんな人がいろいろなことを試してみることで生まれると思っているので、自分の興味関心にかかわらず、何かをやろうとしている人は応援したい。秩序ばかりあって活気がない世の中なんて面白くない。

そういうわけで、23andMeのサービスは何がどう問題視されたのかを確認しておきたい。規制の体系についてもより詳細が分かりました。

この種のサービスでは、通常の検査と同様の臨床的意義が期待できないのはある程度やむを得ない。その場合、結果の意義が限定的であることを丁寧に説明し、医師等の専門家のサポートをシステムの中に上手に組み込むことが大切だということかな、と私は受け取りました。 

(1)経緯
〇23andMe等のDTC遺伝子検査は当初「antiquity determination」(あなたの祖先を明らかに、みたいなことか?)等を謳ってマーケティングを行うなど、ビジネスモデルがはっきりしなかったので、FDAは様子を見ていた。
〇その後、特定疾患の罹患可能性や薬剤応答性など明らかに食品医薬品化粧品法(the FD&C Act)における「device」のClass3としての規制対象となるサービスを宣伝するようになったため、必要な承認を得るよう指導を開始した(class3に分類されるのはおそらく検査結果が不正確であった場合のリスクに「不必要な予防手術」などの重大な健康被害が含まれるためと思われる)。
〇検査結果の正確性、信頼性、臨床的有意性が販売承認の要件であるが、FDAとしては、これらのサービスの多くは、臨床的妥当性が確立されていない検査情報を提供しているという心証を持っている。
〇FDAはまず2010年5月10日にPathway Genomics Corporation(PGC)に対してサービスを行うには事前承認が必要である旨の書状を送り、PGCはサービスを停止した。
〇2010年6月10日には、同様の書状が、Knome, Inc 、Navigenics、deCODE Genetics、23andMeにも送られた。
〇書状はIllumina社にも送られ、"for research use only"の試薬および装置(したがって臨床検査としての使用についてFDAの承認を得たとはいえないもの)をDTCによる臨床応用のために提供している点を問題視(提供するなら承認を得ろ、ということであろう)。
〇FDAはこれらの業者と話し合いを続け、分析的妥当性及び臨床的妥当性を証明する資料の提出を要求していた。(以下、他の業者のことは分からないので23andMeのみ)
〇23andMeはこれらの資料を提出しないまま、サービス範囲を拡大し、いっそう積極的なマーケティングを開始。
〇停止命令。
〇23andMeは、疾患等の健康に関わる分析結果の提供をストップ。顧客には祖先に関する情報とローデータのみを提供している。顧客の返金要請にも応じている。

(2)臨床検査に関する規制の概要
〇Device(日本語では「医療機器」と訳されるようだが少し違和感があるのでつぎの法改正のところ以外は英語のままにします)は、1976年に明示的に連邦食品医薬品化粧品法(以下the FD&C Act)の対象となった(具体的には、同年の医療機器修正(Medical Device Amendments(MDA))による)。
〇前回書いたとおり、deviceはリスクに応じてclass1、2、3のいずれかに区分される(判断するのはFDA)。IVDs(体外診断用機器in vitro diagnostic devices)の場合、判断の根拠となるのは、主として不正確な試験結果が検知されない場合に患者に対して生じうるリスクである。具体的にはこんな感じ。

Class 1:
・低リスクのカテゴリー。ある種の試薬や装置、補完的IVD試験の多くがこれにあたる。
・補完的試験の場合、判断は他の試験結果に依存するため、不正確な結果は通常容易に検知され、修正されうる、ということで、リスクは低いとみなされる。
・ほとんどのClass 1機器は販売前審査(premarket review)の対象外である(「ほとんどの」というのが気になるがよく分からない)。
・例えばclass 1にあたる黄体ホルモン検査は、誤った結果によって妊娠の遅れをもたらしうるが、直接に患者自身を害するおそれは小さい。
(・ここはまだ調査中だが、おそらく届出だけが必要で、事前審査は受けない。)

Class 2:
・中リスクのカテゴリー。化学試験や免疫試験のような標準的な臨床検査がこれに属する。
・ほとんどのclass 2 deviceは販売前審査(section 510(k) of the FD&C Act。FDAが届出に基いて審査する)が義務づけられる。
・例えばsodium testは誤りが検知されず誤った結果に基づいてsodium levelを改善するための治療が行われると生命を脅かすリスクをもたらしうる。このようなものは、class2 にあたる。

Class 3:
・最高リスクのカテゴリー。潜在的に合理的な範囲を超える疾患・傷害リスクを有するものがこれにあたる。
・例えば、C型肝炎ウィルステストにおいて誤って「感染なし」の結果が出た場合、適切な治療が与えられない結果肝不全を起こすリスクが存在する。さらに、感染を知らないことにより患者が感染源として疾患を拡大するリスクもある。
・販売前承認(premarket approval)が義務づけられる。

〇IVDsの多くはclass 2か3。FDAには、販売前の審査や承認に加え、販売後審査、有害事象のモニタリングの権限、深刻な健康被害が生じた場合にはリコールを命じる権限もある(the FD&C Act)。

〇IVDsの規制は、食品医薬品化粧品法のdeviceとしての規制とCLIAによる施設認証の2つが担っている。

〇CLIA(1988年の臨床試験所の改良に関する修正(the Clinical Laboratory Improvement Amendments of 1988:CLIAも食品医薬品化粧品法の修正なのだ…知らなかった)に基づく審査プログラムを運営するのはCMS(the Centers for Medicare and Medicaid Services)。CMSが認証を担当する機関を承認し、CLIAが認証基準を定め、認証業務はそれらの研究機関が行う仕組み。

〇臨床試験そのものの安全性や効果、質の審査はFDAが、施設のクオリティコントロール等の審査はCLIAに基づいて、という分担。

〇他に関連しうる規制として、連邦公正取引委員会法(the Federal Trade Commission Act(FTCA)に基づく連邦公正取引委員会(FTC)の審査システムがある。FTCAのsection5は取引における不公正ないし偽計を伴う行為(unfair or deceptive acts or practices)を禁止、Section12は食品、薬品、devicesサービス、化粧品の虚偽広告を禁止する。FTCは虚偽ないし偽計的広告については強制的なアクションを起こすことができる。

(3)遺伝子診断についてのFDAの対応
〇遺伝子診断は、疾患等の診断、治療、予防等に用いられる場合はdeviceとしてFDAの規制を受ける。心疾患リスクを判断する場合はdevice、祖先を明らかにする場合はdeviceではない。

〇業者が遺伝子診断用のキットを開発して複数のラボに提供する場合、当局は製品(キット)に対して規制を及ぼす。

〇これに対し、医療機関の検査室等が自身で構築した手法で当該ラボでのみ試験を行うLDT(laboratory-developed test)の場合、データの解釈の方法とか説明の仕方なども勘案して、不正確な結果がもたらすリスクの大きさを元にして規制を行う。

〇FDAはLDTsに対しては、1976年のdevice law成立以来、規制権限を行使していなかった。当初、LDTsは概して低リスクであったため、とされる。希少疾患の有無等比較的単純な内容であること、解釈に携わるのが専門家であること、同一組織内の医師がその結果を利用すること、等により、FDAが介入する必要性がないと判断されていたようである。

〇しかし、FDAは近年LDTsの性格が劇的に変化していると受け止め、介入の必要性を認識している。主な変化としては、
―生活習慣病等の高リスクであるが一般的な疾患や症状の評価に用いられる。
―最新の(ときには未確立の)科学的発見が診断の有効性を基礎づけるものとして利用される。
―結果の分析過程が複雑で、専門家による解釈ではなくソフトウェアによる自動化された解釈が行われる。
―FDAの承認を受けた代替の試験が利用できる場合にも行われることがある。
―患者が治療を受ける医療機関と無関係の商業的なラボで行われることが多い。

〇FDAは近年のLDTsには以下のような問題があると認識している。
・誤ったデータ解析
・臨床的意義の誇張
・不正なデータ操作
・トレーサビリティの欠如
・稚拙な研究デザイン
・受け容れがたい臨床検査能力(unacceptable clinical performance)

〇諮問委員会の答申(2001年、2008年)もあり、現在ではすべての遺伝子検査につき、FDAがその分析的妥当性、臨床的妥当性の審査に関わるべきであると考えられている。

(4)今後の見込み
〇23andMe側は、「分析的妥当性、臨床的妥当性に関して証拠が提出されていないこと」が問題で、「妥当性がない」わけではないので、今後FDAを納得させれば全面的にサービスを開始できる、という態度のようである。
〇しかし、ある専門家は、23andMeのサービスは分析的妥当性は十分備えているが、臨床的妥当性は「poor or terrible」であり、FDAが納得する見込みはないとしている。
〇同じ専門家は、こうしたサービスでは解釈がすべてであり、23andMeの問題点は消費者が解釈に必要な情報や知識を与えられていない点にあるとして、FDAは近日中に現在よりはるかに多くの専門家を関与させる方向でのアプローチを要求するかもしれないとしている(この人の主張でもあると思われる)。

【参考】
・FDAの担当者がDTC(Direct-to Consumer Genetic Testing)について米国下院で報告した内容(www.fda.gov/newsevents/testimony/ucm219925.htm)。
・http://venturebeat.com/2013/12/07/23andme-remains-defiant-despite-fda-issues-we-are-not-going-anywhere-exclusive/

Pocket

再生医療安全性確保法について(2) 経緯のつづき

どの時点で誰がどう決めた、ということではなさそうだが(おそろしく日本的です)、振り返ってみると、2つの方向性は「既定」であったと思える。2つの方向性とは、①ES、iPS臨床研究の審査体制は従来通りのシステムを堅持する、②自由診療に何らかの形で手出しができるようにする、というものである。加えて、これは政府からの要請で、③とにかく法律を作る、ということも既定の路線であった。

法律を作り、その中で従来のヒト幹指針と同様のES、iPS審査体制を維持し、かつ自由診療に規制を及ぼす、というのは、今考えても、ほとんど実現不可能である。

まず、ES、iPS等の臨床研究について、あくまでも外側から見た印象に止まるが、厚労省はヒト幹指針の下で相当強力なコントロールを及ぼしていた。どの研究を一番最初の臨床研究として申請させるか、ということすら、実際上厚労省が決定していたのではないか、と私は見ている。こうしたことは、指針によるコントロールが、建前上は「行政指導」に止まり、法的拘束力がないからこそできたことであり、これを法律でやったら文句なしに憲法違反である。

自由診療については、規制の必要があることは理解できる。しかし、前回((1))も書いたように、「なんちゃって再生医療」と同じかそれ以上に危険な医療行為はいくらでもあるわけで、再生医療だけを規制するのは理屈に合わない。そればかりでなく、これも前回書いたことだが、医師免許があればあらゆる医療行為の実施が許される現行のシステムの下で、再生医療だけを取り出して実施を制限するなどということは、仕組み上考えられない。半年かそこらで急に認証システムを作ることもできないだろうし。

しかしともかく、新法において、それらの要請はすべて実現されたのである。結論からいうと、自由診療については、まあこんなところだろう、と思う。しかし、ES、iPS等の臨床研究の規制にはいろいろと問題があるように思う。概要は次回にまとめます(つづく。すごく大河連載になりそうだ…)。

Pocket

23andMeへの販売中止命令

FDA(アメリカ食品医薬品局)が23andMeのパーソナルゲノムサービス(以下PGS)に販売中止命令を出したことが報道されているが、報道ではFDAがどういう根拠で命令を出しているのかよく分からなかったので、FDAの23andMe宛警告状を読み、かつ少し調べてみました。http://www.fda.gov/ICECI/EnforcementActions/WarningLetters/2013/ucm376296.htm

〇まず、FDAによれば、23andMe が提供しているPGSは連邦食品医薬品化粧品法(以下the FD&C Act)にいう「device」に該当する(section 201(h)of the FD&C Act, 21 U.S.C. 321(h))。

〇同法において、「device」はそのリスクの程度等に応じて class 1, 2, 3に分けられる。数字が大きくなるに連れて規制が厳しくなり、Class 3の場合は、PMA approval と呼ばれる事前の販売承認が必要になる。

〇23andMeのサービスは、提供の際の説明の仕方などによってはclass 2 のdeviceとしての提供が不可能ではなかったようであり、FDAはその方向で23andMeに指導を行っていた。しかし、23andMe側はclass 2扱いとしてもらうために必要な対応を行わないまま、最近になってテレビコマーシャルなどによる大々的な販売促進キャンペーンを始め、しかも対象疾患等はFDAに届け出ていた内容よりも拡大している。それでいよいよ堪忍袋の緒が切れて、FDAは、23andMeはclass 3 にあたるdeviceを事前承認なしに販売していると見なし、提供中止命令を出した、ということのようである。

〇FDAがとくに懸念しているのは、23andMeが乳がんのリスクおよび薬剤応答性の評価を行っている点のようで、陰性なのに陽性と出た場合、陽性なのに陰性と出た場合の双方について、余計な手術や検査をしてしまうとか、必要な治療が受けられないとかの問題を指摘している。

〇これらについては、世間でも、医療行為そのものだ、として、医師を通さずに情報提供することに対する批判、議論があった(NYTimes参照)。

なるほど。詳しくはもう少し調べる必要があるけれど、23andMe側が診断寄りの情報提供を控えるなどすれば、サービスの継続自体を止められることはなかったものと思われ、日本で同様のサービスを考えている方々にも非常に参考になると思います。

Pocket

再生医療安全性確保法について(1) 立法の経緯

再生医療の安全性確保等に関する法律(略称「再生医療安全性確保法」。施行日は公布から1年以内)が成立した。

立法に向けた議論が始まったのは昨年2012年の9月26日、7回の会合を経て、2013年4月18日は立法の方向性を記した報告書がまとめられ、法案は5月24日に国会(第183回)に提出された。継続審議になっていたものが今国会で成立したもので、全体としては、あっという間にできた、という印象がある。

上記の議論を行ったのは、2012年8月20日に設置された委員会(厚生科学審議会 科学技術部会 再生医療の安全性確保と推進に関する専門委員会)で、私も委員の一人だったが、この法律がどのような意図で作られたものなのか、今でも少し分からないところがある。

再生医療は民主党政権時代から成長戦略の有望株として位置づけられていた(日本再生戦略(平成24年7月31日閣議決定)、医療イノベーション5カ年戦略(医療イノベーション会議・平成24年6月6日等)。山中伸弥教授のノーベル賞受賞もあり、この路線自体は政権交代後もおそらく維持され、平成25年4月26日には「再生医療を国民が迅速かつ安全に受けられるようにするための施策の総合的な推進に関する法律」(再生医療推進法)(平成25年5月10日法律第13号)が成立している。これは、自民、民主、公明の議員を中心とした議員立法で、とにかく再生医療の実用化を進めていこうという方針は党にかかわらず共有されていることが分かる。

議論が始まった当初、自由診療で行われる(まあ何というか、怪しい)「再生医療」を規制する必要があるということが、何人かの委員から強い意見として出され、行政側にもその問題意識は共有されているように見えた。それで、われわれのミッションは、自由診療を適切にコントロールするための規制方式を考えることである、と理解した委員はかなり多かったと思われる(私もそう思っていた)。要するに、再生医療を国策として推進しよう、というときに、「再生医療」の看板を掲げたクリニックなどが怪しい治療を行い、「再生医療」の名に傷を付けるようでは困る。これは何とかしなければ、という話である。

この段階で、私は、再生医療を特別に規制する立法を行うのは筋が違うと思っていた(今でも思っている)。日本はよくも悪くも医師の裁量権を最大限尊重してきた国で、医療行為自体の法規制は一切存在しなかった(医療行為の適正は全面的に医師に委ねられていた)*。被験者・患者の保護のために、臨床研究・先端的医療に何らかの規制を及ぼすことが必要であるとしても、再生医療だけが特別に危険だというわけではない以上、再生医療の実施にだけ規制がかかるのは不合理である。もちろん、国が国策として推進するにあたり、不当な再生医療が蔓延するのを防ぎたい気持ちは分かる。しかし、そんなことは、クリニックで再生医療を実施する医師、受けることを希望する患者の知ったことではない。

とまあ、こんな感じの議論を最初はしていたのであるが、その後出てきた事務局による叩き台は、自由診療がターゲットという雰囲気ではなく、iPS、ES細胞を用いた最先端の臨床研究を含めて、再生医療の臨床応用に広く網をかけるものとなっていた。たぶん多くの委員は「なるほど。しかし、推進すべき対象である山中先生のiPS研究のようなものをこんな風に規制する意味はどこにあるんでしょうか。何か、肝心の自由診療にはあまり影響がなく、最先端の研究に厳しいものになっているような気がしますが…(どういうことなんだろう?)」といった感想を持っていたと思う。しかし、実際には、これがそのまま法律になっていくのである。(続く)

*注:なお、再生医療法は医療の内容を規制する初めての法律だというと「臓器移植法は」と仰る方が多いが、臓器移植法は、臓器を死体から摘出する際の手続を定め、臓器売買を禁止し、業として行う臓器のあっせんを許可制としているだけで(許可というのは「禁止」の解除なので、許可制は行為の原則禁止を意味します)、臓器移植という医療行為に制限を加えるものではない。臓器移植法の対象臓器については、あっせんの許可を受けているのが臓器移植ネットワークだけなので、ネットワークを通さないで実施することは不可能になっているが(大変賢い規制の方法ですね)、例えば、対象臓器でない臓器(脳?)を死体から摘出し臓器移植に用いることは、同法の規制の対象ではない。

Pocket