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専門の罠

むかし小澤健二さんが「ありとあらゆる種類の言葉を知って何もいえなくなるなんて、そんなバカな過ちはしないのさ~」とうたっていて激しく共感したものだが、このブログを始めてみて自分もそうなっていることに気がついた。大変だ。

世間の目を気にして、専門の観点から言うべきことだけを書こう、と思ったのが大きな間違えであった。世間では、というか何らかの専門をもって世に出ている人々の間では、専門家として言えることしか言わないということが一種の美徳というか専門家の矜持というか専門家として責任のある態度であると思われている節があるが、間違っていると思う。

「専門家として言えることだけを言う」というのは、一般には、その専門領域において確立し承認されている命題や理論によって説明可能なことだけを専門家的真実と見なし、その真実だけを語るという態度のことである。震災後の原発事故のときに東大とかの原子力の人々が語っていたのが正にこの専門家の言葉で、私はあの統制の取れた専門家ぶりにある意味で感嘆したが、法学者もああいうのは大得意である(私はさほど得意ではないがある程度はできる)。

この種の「専門家的真実」は、存在意義はもちろんあるのだが、しかし非常に危険なものなので、取扱いには十分に注意しなければならない。

専門家的真実の危険である所以は、それが宙に浮いていて、誰かがその身体でもって真実性を保証するものではないところにある、と思われる。そういう形でなければ得られない真実というのもあるので、これは一定程度は必要なものである。しかし、とくに一般社会に対してこの立場から発言するのはほとんどの場合に適当ではない。理由は単純で、世界も人間も専門の観点から分けられるものではないからである。「専門の観点からはこうです」なんて言ったところで、本当に、何の役にも立ちはしない。

社会に対してなされる発言は(学術の場でも大体はそうではないかと思うが今回は措く)、発言する個人の人格(身体や日々の暮らしにおける実感)を通して出てくるものでなければならないと思う。そうすることで、どうにか、世界や人間に接続しうるだけの全体性というか統合性が得られるかもしれないから。もちろん、その発言は専門性によって正しさを保証されることはない(他方、専門的真実の危険さは、実はその場面では何の役にも立たないにもかかわらず、専門性によって正しさを保証されてしまうところにある)。正しさを担保するのは発言する人の身体であり生き方であり、だからこそ、妥協の余地すなわち議論の余地もあるのである。

もう一つ、専門家的真実には邪悪といってよいくらい危険なことがあって、それは、その専門家が良心的であればあるほど、「別に自分が言わなくてもよい」「自分にはいう資格がない」と思ってしまうということである。専門家的真実の探究にはきりがなく、世界との関連性を失ってどっか行ってしまったような「真実」も沢山あるのだが、そういうすべてを自分が見通しているということはないし、すべての先端に自分がいるということもない。そういうことを自覚していると、専門家として語ることなどはできなくなってしまう。

専門は、おそらく、学術という方法で世界に近づくための入り口、とっかかりでしかなくて、後は自分の人格を通してどこまで行けるかが勝負なのだろう。

ということで、これからは専門家として、という枠は外します。
(長い言い訳だったなあ。私もまだ大分世間に遠慮しているのだ。)

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再生医療法後始末と字数

紀要に何か書く必要があったので、再生医療法のことを書いておこうと思って書き始めたらあっという間に20000字に達した。8000字くらいで何とか、と思っていたので自分でも驚いた。ものすごく大急ぎで表面をなでただけのもので、一つ一つの問題を深く論じたわけでは決してない。委員会で許される発言の量は1回にせいぜい2、3回、あまりややこしい発言はしても通らない。議論の俎上に載せることすら不可能な、しかし重大な問題がたくさん放置されたまま法律ができている、ということを改めて認識した。

ブログという形式にも量の限界があることは書き始めて気がついた。レイアウトの工夫をすればもう少し何とかできるかもしれないが、論文のように書くことはできない。Facebookでは量以前に内容がものすごく限定されるので、ブログの方がまだ使いでがあるかと思って始めて見たが、専門家として公に提供できるような情報で、1000~2000字にまとめられるものというのは多くない。近況を知らせるために書いているわけでもないし。メディアとして機能するにはもう一工夫必要だな、と思っています。

量といえば、ニュース番組における識者のコメントが、最近ほとんど民間の研究所(何とか総研、とか)の人で占められているのにお気づきであろうか。おそらく、テレビ局が欲しいコメントを短く提供してくれて、大学の研究者みたいに要領を得ない長いコメントをしたり、事前にチェックさせろとか、発言の趣旨が違うと苦情が来たりとか、そういう面倒もなく、研究所としても宣伝になるし、どちらにとってもよいことばかり、ということなのだろう。どんな重要事項も5秒か10秒で、紙が使われる場合ですら「A41枚」で
すませる社会で、法学のようなタイプの学問をするのは結構空しいことのように思う。

そういうわけで、再生医療法連載のつづきは、近々立教法務研究に掲載されます。ネット上で読めますので、出たら改めてお知らせいたします。

20000字なんて読みたくないですか?そうですよね…

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ヘンなもの

オウムの人たちが大挙して選挙に出馬し教祖の着ぐるみを着て街中を歌い踊っていたとき、それがあまりに馬鹿げているので、ヒマな高校生だった私たちはお腹を抱えて笑って見ていた(関係ないけど銀座の街頭にいた赤尾敏さんとかにも興味を引かれて手を振ったりしていたものでした。すみません)。

もうちょっと責任感のある大人の中には、気味が悪いと感じていた人もいるんだろう。のちに地下鉄サリン事件がおこってオウムの内実は全然面白がっている場合ではなかったことが分かり、私は高校生当時の自分の無責任さや勘の悪さを恥じた。このことは今も反省材料として胸に残してある。

十分な数の真っ当な人間が世の中に適当に配置されているときには、ヘンなものというのは表に出てこない。ヘンなことを考える人は常にいるけれど、世間の常識はそれを鼻で笑って相手にしないから、その「ヘンさ」が組織的な形で行使されるには至らない。したがって、ヘンなものが表立って見えてくるということは、それを許容範囲として受け容れる人間が既に一定数に達していることを意味している。

もちろん、それが「ヘン」である限り、世の中的には、まだそれをおかしいと感じている人間の方が圧倒的に多い。しかし、この段階では、すでに当事者を説得する可能性は失われていることが多いのではないかと思う。その組織は、内部にそれを押しとどめる自浄機構を持っていないからこそ平然とそれを出しているのであり、多くの日本人にとって一番重要な「仲間内」、すなわちその人の「世間」はそれを支持していることになる。そして、公に表に出してしまった以上(これも多くの日本人にとって)それ以降の撤回は論理ではなく面子の問題になる。こうなったときには、それを出してきた当事者とはもはや「話が通じない」レベルの懸隔が生じてしまっている、と見た方がよいと思われる。せせら笑うだけの知性が自分や友人に備わっているのだから大丈夫と思った高校生の自分は断然甘かったし、とくに日本の場合(と私は思うのだが)「話せば分かる」が通用する状況はむしろ例外的である。

例えば自民党の憲法改正草案は十分に「ヘン」のレベルに達している。特定秘密保護法に関する閣僚のコメントなども笑ってしまうものが少なくなかった。そしてそう思っている人が(少なくともある程度物を知っている人の間では)圧倒的に多いことも知っているけれども、私はあまり楽観的になれない。

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民主主義について

民主主義に対して悲観的な書き物が目立つ気がする。いくつかのパターンの論調があるから一言では片付けられないし、国内外を問わない傾向であることも少しは知っている。最近の日本のもの(想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』を読みました)には、昨今の政治に関する動きへの強い危機感が見えて、共感せずにはいられない。

分かる。分かるよ!

もっとも、日本の場合、捨てるも何も、民主主義は根づいたことがないと思われる。「アメリカ人を模倣するとき、われわれは半分だけを取り入れ、他の半分を省略しましたが、この半分こそ、市民が政治について率直に語り合うという文化であり、民主的なるものとして法の形成に貢献しそれを尊重する精神なのです。」

しかし、われわれの世代、すなわち、生まれたときから「日本は民主主義国家です」といわれて育ち、民主的な法制度が完備されていることも知り、とくに法学など学んで、日本は少なくともシステムにおいては欧米と変わらないものを持っているはずだと信じてやってきた者が、いざ社会の中心で活躍する年代にさしかかって世の中を見たときに、「?!」「話が違うぞ!日本って何?全然民主的でないし、法も尊重されてないじゃん!!」と気づいたとすれば(私の場合です)、それは一つの達成であると思うのだ。

親の世代だと、民主主義の何たるかなど分かっていたのは本当に限られた一部の層だけだったと思われる。でも、親の世代が、よく分からないながらも、これからは民主主義で、平等なのだから、われわれ庶民の子供にも教育を与えなくては、と思ってくれたからこそ、今のわれわれがあって、「え、何これ?おかしいよ?」と気づくこともできている。

省略した半分を補填しよう、というのが自分のやろうとしていることだと最近はっきり分かってきた。

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再生医療安全性確保法について(2) 経緯のつづき

どの時点で誰がどう決めた、ということではなさそうだが(おそろしく日本的です)、振り返ってみると、2つの方向性は「既定」であったと思える。2つの方向性とは、①ES、iPS臨床研究の審査体制は従来通りのシステムを堅持する、②自由診療に何らかの形で手出しができるようにする、というものである。加えて、これは政府からの要請で、③とにかく法律を作る、ということも既定の路線であった。

法律を作り、その中で従来のヒト幹指針と同様のES、iPS審査体制を維持し、かつ自由診療に規制を及ぼす、というのは、今考えても、ほとんど実現不可能である。

まず、ES、iPS等の臨床研究について、あくまでも外側から見た印象に止まるが、厚労省はヒト幹指針の下で相当強力なコントロールを及ぼしていた。どの研究を一番最初の臨床研究として申請させるか、ということすら、実際上厚労省が決定していたのではないか、と私は見ている。こうしたことは、指針によるコントロールが、建前上は「行政指導」に止まり、法的拘束力がないからこそできたことであり、これを法律でやったら文句なしに憲法違反である。

自由診療については、規制の必要があることは理解できる。しかし、前回((1))も書いたように、「なんちゃって再生医療」と同じかそれ以上に危険な医療行為はいくらでもあるわけで、再生医療だけを規制するのは理屈に合わない。そればかりでなく、これも前回書いたことだが、医師免許があればあらゆる医療行為の実施が許される現行のシステムの下で、再生医療だけを取り出して実施を制限するなどということは、仕組み上考えられない。半年かそこらで急に認証システムを作ることもできないだろうし。

しかしともかく、新法において、それらの要請はすべて実現されたのである。結論からいうと、自由診療については、まあこんなところだろう、と思う。しかし、ES、iPS等の臨床研究の規制にはいろいろと問題があるように思う。概要は次回にまとめます(つづく。すごく大河連載になりそうだ…)。

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