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必要なのは医師を免責する法ではない―尊厳死法制化の動きについて

*ブログというより意見書的なものになりました。いずれより見やすい形に整理するつもりですがとりいそぎこの形で。

1  はじめに

「尊厳死法制化を考える議員連盟」(会長・増子輝彦民主党参院議員)が、終末期患者が延命措置を望まない場合、医師が人工呼吸器を取り外すなど延命措置を中止しても、法的責任を免責する「尊厳死法案」をまとめ、今年の通常国会に議員立法で提出する方針を固めた、という報道がなされている。尊厳死法制定は議員連盟の長年の悲願のようであり、現在の政治情勢においてなら実現できるかもしれない、と期待されているのかもしれない。

医師が刑事訴追をおそれる気持ちは分かる。また、終末期においてしかるべき手続を経て人工呼吸器等による治療を中止する行為が処罰の対象となるべきでない、という価値判断も妥当であると思う。しかし、その上で、専門家として述べると、現在の状況では、なされるべき立法は「医師を免責する」趣旨のものではない。この問題をめぐる法的環境の変化については、法学者の間ではある程度理解が共有されていると思うが、一般向けの解説がないように思われるので、刑法学者としてお伝えするべきことをお伝えしたい。

2  最高裁は「法律上許容される治療中止」を認めている

まず、ほぼ確実にいえることは、現行法の下でも、「議員連盟」が免責の対象としている行為(死期が切迫していて回復可能性のない患者について患者の意思に基づいてその治療を中止する医師の行為)が処罰されることは考えられない、ということである。

治療中止行為の許容性については、平成21年の最高裁判例がある(川崎協同病院事件上告審決定(最決平成21年12月7日刑集63巻11号1899頁))http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091209113834.pdf

かなり早い段階で独善的に「自然に死なせるのが本人のためである」と考えて、家族をその方向に誘導するようにして医師が治療を中止してしまったこの事件については、第一審から最高裁まですべてが有罪を言い渡している(殺人罪としての処理が妥当であるかは後で述べる)。しかし、先例として見たときに、重要なのは、この判例において最高裁が「法律上許される治療中止行為」というものの存在を認めた点である。

最高裁は、「被告人が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後、本件抜管時までに、同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず、発症からいまだ2週間の時点でもあり、その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかった」こと、加えて「被害者は、本件時、こん睡状態にあったものであるところ、…抜管は…家族からの要請に基づき行われたものであるが、その要請は…被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく、…抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない」ことを理由に、「法律上許容される治療中止」としての正当化を否定した。この事件では、患者が終末期にあることも、患者に治療中止の意思があることも、どちらも適切な手続によって確認されていない、ということが、有罪と認定する理由となっている。これは、裏を返せば、適切な手続を経てこれらが確認された場合には正当化が認められる余地があることを、最高裁が肯定した、ということにほかならない。

これまで、医師による治療中止行為が裁判で争われたことはなく、この点について最高裁がどのような立場に立っているのかは明確ではなかった(東海大安楽死事件では、最後に心停止作用のある薬を投与した行為だけが起訴されたので、その前に行われた治療中止は直接の争点ではなかった。横浜地裁は治療中止行為についても一定の判断を示したが、一審で確定したため上級審の判断はなされなかった)。その間、とくに医療の世界では、「治療をしないことは不作為だから処罰されないが、すでに開始されている治療を中止するのは作為だから犯罪になる」といった生半可な法解釈(すみません…でもそう思う。しかしこの状況に真剣に向き合わず解釈を正さなかったのは法学者の責任である)が浸透し、医療現場では、本人も家族も医師も、誰もよいとは思っていないのに治療を中止できない事態がしばしば生じていたと聞く。このような中で、最高裁が、治療中止という「作為」を正当化する可能性を認めたことは、非常に大きな意味を持つことなのである。

3  手続についてはガイドラインがある

上記最高裁は「法律上許容される治療中止」の存在を認めたが、その要件を具体的に示すことはしていない(これには不満の声もあるであろうが、治療中止の許容要件は衆知を結集して議論されるべき事項であり、要件を示さなかったのは裁判所の見識である)。しかし、この点については、すでに相当信頼に足る議論の蓄積がある。

川崎協同病院事件や射水市民病院事件では、医師が自分一人の判断で治療を中止していたことが、問題の大きな要素を占めていた。そこで、これらの事件を教訓に、行政や医学会において、終末期の治療方針を決定する際の適正なプロセスを検討する動きが活発化し、厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年5月)、日本救急医学会「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)(2007年11月)、日本小児科学会「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話合いのガイドライン」(2012年4月)、日本老年医学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン―人工的水分・栄養補給の導入を中心として」(2012年6月)等に結実している。川崎協同病院事件以降、殺人罪で立件されうるような事案が表れていないのは、これらのガイドラインが事態の改善に寄与したためと考えてよいと思われる。

これらのガイドラインは法律ではない。しかし、これらは、患者の病状を適切に評価し患者の意思を尊重するために医療者が従うべき最善のプロセスを示すもの(少なくともそれを目指すもの)であり、これらに従ってなされた治療中止行為が起訴され有罪とされることは事実上考えられない。プロセスに関するガイドラインが示されたことに加え、最高裁が「法律上許容される治療中止」の存在を明確に認めたことによって、しかるべき手続を踏んで行われた治療中止行為が法的責任を問われる蓋然性は限りなくゼロに近づいたといってよい。

したがって、医療関係の方々には、法の威嚇に怯えることなく、よりよい終末期医療を目指して議論と実践を重ねていただきたいと思う。そうして不断にガイドライン類が改良されていくことが、より安定的な秩序を形成していくための最善の方法である。

4  どのような立法が必要か

繰り返しになるが、現行法の下でも、適切な手続にしたがってなされた治療中止行為が法的責任を問われることは考えられない。その点では、お医者さんたちには安心していただいてよい。ただ一点、不安定さが残るのは、ガイドライン等が定める手続に違反して行われた治療中止行為の扱いである。

終末期医療に関する特別の法制度がない現状では、手続に問題のある行為は、殺人罪として訴追されることにならざるを得ない。前項で述べたように、上記の各種ガイドラインは、「医療者が従うべき最善のプロセス」を示す趣旨のものであるから、それに反したからといって直ちに犯罪として扱うのは妥当ではない。しかし、殺人行為を正当化する事由として「治療中止」が議論され、その正当化要件には各種手続が含まれるという判断を最高裁がしていることを前提とすると、検察官は手続違反を殺人罪で起訴せざるをえないであろうし、裁判において有罪とされるおそれも否定できない。

もちろん、死期の切迫性や回復不能性が明らかに認められないとか、本人の意思に反しているとかいう場合には、殺人罪の成立が認められるべきである。しかし、死期の切迫性の判断を医師が単独でしてしまった、といった手続違反を、いきなり殺人罪で処罰する、というのは穏当ではないと思われる。

この問題は、終末期医療における意思決定を適切に行うためのプロセスを定めた法律を作り、重要な手続の違反に対して罰則を設けることで解決できる。そのような特別法があれば、死期の切迫性や本人意思を欠いていたことは証明できないが、重要な手続違反があった、という場合、医師は特別法違反の罪に問われるに止まり、殺人罪で起訴されるのは、実体として治療中止がなされるべきでない状態の患者の治療が中止された場合や、本人の意思に反して中止された場合等に限られることになる。

終末期医療が「問題」化する根本的な原因は、患者側(国民一般)の医師に対する不信感にある。「患者のリビングウィルがあれば医師は免責される」といった制度を設け、医師にある種自動化された判断を許すなら、医師の信頼性はむしろ損なわれる結果になるであろう。現在必要なのは、医療者を支援してその信頼性を高め、患者には安心の材料をもたらすための法制度であって、医師を免責するための法律ではない。

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