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再生医療安全性確保法について(1) 立法の経緯

再生医療の安全性確保等に関する法律(略称「再生医療安全性確保法」。施行日は公布から1年以内)が成立した。

立法に向けた議論が始まったのは昨年2012年の9月26日、7回の会合を経て、2013年4月18日は立法の方向性を記した報告書がまとめられ、法案は5月24日に国会(第183回)に提出された。継続審議になっていたものが今国会で成立したもので、全体としては、あっという間にできた、という印象がある。

上記の議論を行ったのは、2012年8月20日に設置された委員会(厚生科学審議会 科学技術部会 再生医療の安全性確保と推進に関する専門委員会)で、私も委員の一人だったが、この法律がどのような意図で作られたものなのか、今でも少し分からないところがある。

再生医療は民主党政権時代から成長戦略の有望株として位置づけられていた(日本再生戦略(平成24年7月31日閣議決定)、医療イノベーション5カ年戦略(医療イノベーション会議・平成24年6月6日等)。山中伸弥教授のノーベル賞受賞もあり、この路線自体は政権交代後もおそらく維持され、平成25年4月26日には「再生医療を国民が迅速かつ安全に受けられるようにするための施策の総合的な推進に関する法律」(再生医療推進法)(平成25年5月10日法律第13号)が成立している。これは、自民、民主、公明の議員を中心とした議員立法で、とにかく再生医療の実用化を進めていこうという方針は党にかかわらず共有されていることが分かる。

議論が始まった当初、自由診療で行われる(まあ何というか、怪しい)「再生医療」を規制する必要があるということが、何人かの委員から強い意見として出され、行政側にもその問題意識は共有されているように見えた。それで、われわれのミッションは、自由診療を適切にコントロールするための規制方式を考えることである、と理解した委員はかなり多かったと思われる(私もそう思っていた)。要するに、再生医療を国策として推進しよう、というときに、「再生医療」の看板を掲げたクリニックなどが怪しい治療を行い、「再生医療」の名に傷を付けるようでは困る。これは何とかしなければ、という話である。

この段階で、私は、再生医療を特別に規制する立法を行うのは筋が違うと思っていた(今でも思っている)。日本はよくも悪くも医師の裁量権を最大限尊重してきた国で、医療行為自体の法規制は一切存在しなかった(医療行為の適正は全面的に医師に委ねられていた)*。被験者・患者の保護のために、臨床研究・先端的医療に何らかの規制を及ぼすことが必要であるとしても、再生医療だけが特別に危険だというわけではない以上、再生医療の実施にだけ規制がかかるのは不合理である。もちろん、国が国策として推進するにあたり、不当な再生医療が蔓延するのを防ぎたい気持ちは分かる。しかし、そんなことは、クリニックで再生医療を実施する医師、受けることを希望する患者の知ったことではない。

とまあ、こんな感じの議論を最初はしていたのであるが、その後出てきた事務局による叩き台は、自由診療がターゲットという雰囲気ではなく、iPS、ES細胞を用いた最先端の臨床研究を含めて、再生医療の臨床応用に広く網をかけるものとなっていた。たぶん多くの委員は「なるほど。しかし、推進すべき対象である山中先生のiPS研究のようなものをこんな風に規制する意味はどこにあるんでしょうか。何か、肝心の自由診療にはあまり影響がなく、最先端の研究に厳しいものになっているような気がしますが…(どういうことなんだろう?)」といった感想を持っていたと思う。しかし、実際には、これがそのまま法律になっていくのである。(続く)

*注:なお、再生医療法は医療の内容を規制する初めての法律だというと「臓器移植法は」と仰る方が多いが、臓器移植法は、臓器を死体から摘出する際の手続を定め、臓器売買を禁止し、業として行う臓器のあっせんを許可制としているだけで(許可というのは「禁止」の解除なので、許可制は行為の原則禁止を意味します)、臓器移植という医療行為に制限を加えるものではない。臓器移植法の対象臓器については、あっせんの許可を受けているのが臓器移植ネットワークだけなので、ネットワークを通さないで実施することは不可能になっているが(大変賢い規制の方法ですね)、例えば、対象臓器でない臓器(脳?)を死体から摘出し臓器移植に用いることは、同法の規制の対象ではない。

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自動車運転死傷行為処罰法

標記法律が成立した(正式名称を「自動車の運転により人を死傷させる行為の処罰に関する法律」というらしい)。

とりあえず新聞報道によると、今まで刑法典にあった自動車運転関連の罪(自動車運転過失致死傷罪、危険運転致死傷罪)が新法に移動し、内容としては、①危険運転致死傷罪の処罰範囲が拡大され(こちらについてはまた今度)、②飲酒(服薬)の影響で交通事故を起こし、発覚をおそれて逃走する行為を犯罪化したという(「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」だそうである。過失運転致死傷罪の加重類型ということなのだろうか)。

①については内容を把握してからコメントしたいが、②については、ぱっと見た段階で反対である。こういうのは正しい罰則の使い方ではないと思う。

想像してもらいたい。飲酒運転をして事故を起こし、動揺して逃げてしまう人間はどういう人間だろうか。これはかなりはっきりしていると思う。バカ(それほど悪い意味ではない)な人間か、弱い人間である。バカな人間、弱い人間を処罰して何かいいことがあるだろうか。刑務所に入れたらバカでなくなり、弱くなくなるだろうか。私はそうは思わない。飲酒運転はよくない(だから飲酒運転に罰則があるのは結構なことである)。しかし、事故は過失によるものなのである。突然自分が人を死傷させてしまったときに、強く正しく美しく行動しなければ処罰される、というのはいかがなものだろうか。

20歳そこそこの学生が、軽い気持ちで飲酒運転をし、うっかり事故を起こして、さらにうっかり逃走してしまう姿を、私は容易に想像できる。未成熟(年齢だけの問題ではない)から来る問題行動に対して、社会から理解と愛情に欠けた仕打ちを受けた者が、その後よりよい人間に育っていくことは、絶対にないとは言わないが例外的であろう(なぜか手元にないが、岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書、2013年)は大変勉強になった)。

自動車運転関連の条文が刑法からごっそり抜けたことは、司法試験受験生にとっては朗報かもしれません。

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ロースクール答案添削

学生諸君には、法律家の仕事はみんなに納得してもらうことなのだから、解決の道筋を示すときには、なぜ事実をそのように捉え、法をそのように解釈・適用するべきなのかを説明し、考えられる異論にも丁寧に答えた上で提案をするよう教え、学生諸君もそのように努力している(と思う)。

それでも、学生さんが書いてくる答案には何となく違和感を覚えることが多い。「とくに大きな問題はないんだけど、なんかちょっとな~」と感じるのである。なぜかな、と考えて、一応、分かった。「懐疑」が足りないのである。たぶん。

答案の多くは、自らの出した結論が正しいことを前提にして、その「正しさ」を証明・説得するために理由を書き連ねる。とてもよく書けていて、非の打ち所もない、ということもある。それでも、書いた本人が「ほら。こんなに正しいでしょ。その上、こんなに丁寧に説明してるんだし。どうかこれで納得してね」「どう考えてもこれが妥当な結論だし、先生に言われたとおり、ちゃんと説明しています。これで納得して下さい(そしてよい点数を下さい)」という気分でいる限り、読み手の違和感は消えないだろう。

法曹は、制度として「正義」を担う特殊な職業である。そのような職を担う者にとって、一番大切なことはなんだろう。私は、「致命的な間違い(不正)を犯さない」ことであると思う。

もちろん、われわれは「正しさ」を求めて議論をするものである。しかし、何が正しいかはそう簡単に分かるものではない。そして、正しいと考えることを主張しつつ、「でももしかしたら間違ってるのかも」という疑念を持ち続けることが、「正しさ」に近づく唯一の道であるし、自分の知性を最高に発揮する策でもある。「致命的な間違いを犯さない」という構えは、法曹として最小限の要請であると同時に、最善に至る道でもあるのではないかと思う。

これは学生さんに是非お伝えしたいことだが、恐るべき悪事(民族浄化とか)というものは、いかにも悪そうな顔をした「悪人」が起こすものではない。私が理解している限り、人間が最低最悪のことを実行してしまうのは、(1)自分が正しいことをしていると信じているとき、(2)自分を大きなシステムの歯車にすぎないと捉え、個人として自己の行為の適否を考えなくなったとき(ちゃんと読んでいませんが、ハンナ・アーレント『イエルサレムのアイヒマン』。映画は見ました)の2つである。(1)も(2)も部分的にはよく見られる人間像であるが、懐疑を失うことは思考を止めることであり、それはとっても恐ろしいことなのだ。

最高裁が言っていることをそのまま書く場合も、先生に習ったことをそのまま書く場合も、それに自分が深く納得している場合であってさえ、それが本当に正しいかどうかは分からないのです。間違っているかもしれないと思えばこそ、その妥当性をできる限り確かめるために、たくさんの言葉を書き連ねることになり、それが結果的に人を納得させることにもなる(そして致命的な不正を回避することにもつながる)。

公の秩序というものは、深い懐疑を内面化した人々(これが識者の定義ですね)の議論を通じて形成されるものである。法曹というのは、職業的にその議論を担う人々であり、ロースクールはその能力を涵養するところである。活発に思考して下さい。

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