月別アーカイブ: 2014年1月

抽象化

人の名前が覚えられない。固有名詞は基本的に覚えられず、よく考えると一般名詞と固有名詞の境はさほどはっきりしないので、一般名詞がいつ失われてもおかしくない、という危機感も常にある(例えば「水」とか「紙」とかは大丈夫だと思うが、「はさみ」のレベルだと危ない気がする)。それは自分の物事の認識の仕方と深く関わっていて必然的であるように思えるので、別段覚えようという努力はしないのだが、世間では名前を覚えないのは失礼なことだと認識されているようなので、「すみません、すみません」とペコペコしながらやり過ごしてきた。

そうしたら、森博嗣さんが「忘れることは、抽象化の一つである」と書いていて、膝を打った。森さんは一般に「物忘れが激し」く(私も同じだ)、固有名詞に関しては「本当に親しい友人でも、名前がぱっと出てこないことがある。毎日会う人くらいだと、なんとか覚えていられるけれど、半年に一度くらいの人は忘れてしまう」。そして「自分が指導した学生たちも、誰一人名前を覚えていないといっても過言ではない(自慢でもない)」、と書かれているが、これは私もまったく同じである(自慢でもありません)。しかし顔も人柄も覚えているので、その人のことを忘れているわけでは決してない、というところも同じである。

森さんはこれを「具体的なものを忘れて、抽象的なものが頭に残っている状態」、すなわち「抽象」である、として積極的な意味を認めている。例えば、名言を読む場合、名言を暗記して人に伝えることよりも、「自分がそれをどう感じたのか、その言葉がどんなイメージなのか、ということの方が実は大切」である。物事の具体的な部分(名前や名言)に目を奪われているのは、本質を見失っている状態であって、良い傾向ではない。

そうだそうだ!
学生さんにはずっと「名前は覚えないが無関心なわけではないから傷つかないで下さい」「人柄は良く覚えているのだから何の問題もないでしょう?」と言い続けてきたが、これからは「皆さんも、名前が覚えられない、という境地を目指したらどうですか」と言おうと思う。

*森博嗣『常識にとらわれない100の講義』(だいわ文庫・2013年)

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専門の罠

むかし小澤健二さんが「ありとあらゆる種類の言葉を知って何もいえなくなるなんて、そんなバカな過ちはしないのさ~」とうたっていて激しく共感したものだが、このブログを始めてみて自分もそうなっていることに気がついた。大変だ。

世間の目を気にして、専門の観点から言うべきことだけを書こう、と思ったのが大きな間違えであった。世間では、というか何らかの専門をもって世に出ている人々の間では、専門家として言えることしか言わないということが一種の美徳というか専門家の矜持というか専門家として責任のある態度であると思われている節があるが、間違っていると思う。

「専門家として言えることだけを言う」というのは、一般には、その専門領域において確立し承認されている命題や理論によって説明可能なことだけを専門家的真実と見なし、その真実だけを語るという態度のことである。震災後の原発事故のときに東大とかの原子力の人々が語っていたのが正にこの専門家の言葉で、私はあの統制の取れた専門家ぶりにある意味で感嘆したが、法学者もああいうのは大得意である(私はさほど得意ではないがある程度はできる)。

この種の「専門家的真実」は、存在意義はもちろんあるのだが、しかし非常に危険なものなので、取扱いには十分に注意しなければならない。

専門家的真実の危険である所以は、それが宙に浮いていて、誰かがその身体でもって真実性を保証するものではないところにある、と思われる。そういう形でなければ得られない真実というのもあるので、これは一定程度は必要なものである。しかし、とくに一般社会に対してこの立場から発言するのはほとんどの場合に適当ではない。理由は単純で、世界も人間も専門の観点から分けられるものではないからである。「専門の観点からはこうです」なんて言ったところで、本当に、何の役にも立ちはしない。

社会に対してなされる発言は(学術の場でも大体はそうではないかと思うが今回は措く)、発言する個人の人格(身体や日々の暮らしにおける実感)を通して出てくるものでなければならないと思う。そうすることで、どうにか、世界や人間に接続しうるだけの全体性というか統合性が得られるかもしれないから。もちろん、その発言は専門性によって正しさを保証されることはない(他方、専門的真実の危険さは、実はその場面では何の役にも立たないにもかかわらず、専門性によって正しさを保証されてしまうところにある)。正しさを担保するのは発言する人の身体であり生き方であり、だからこそ、妥協の余地すなわち議論の余地もあるのである。

もう一つ、専門家的真実には邪悪といってよいくらい危険なことがあって、それは、その専門家が良心的であればあるほど、「別に自分が言わなくてもよい」「自分にはいう資格がない」と思ってしまうということである。専門家的真実の探究にはきりがなく、世界との関連性を失ってどっか行ってしまったような「真実」も沢山あるのだが、そういうすべてを自分が見通しているということはないし、すべての先端に自分がいるということもない。そういうことを自覚していると、専門家として語ることなどはできなくなってしまう。

専門は、おそらく、学術という方法で世界に近づくための入り口、とっかかりでしかなくて、後は自分の人格を通してどこまで行けるかが勝負なのだろう。

ということで、これからは専門家として、という枠は外します。
(長い言い訳だったなあ。私もまだ大分世間に遠慮しているのだ。)

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再生医療法後始末と字数

紀要に何か書く必要があったので、再生医療法のことを書いておこうと思って書き始めたらあっという間に20000字に達した。8000字くらいで何とか、と思っていたので自分でも驚いた。ものすごく大急ぎで表面をなでただけのもので、一つ一つの問題を深く論じたわけでは決してない。委員会で許される発言の量は1回にせいぜい2、3回、あまりややこしい発言はしても通らない。議論の俎上に載せることすら不可能な、しかし重大な問題がたくさん放置されたまま法律ができている、ということを改めて認識した。

ブログという形式にも量の限界があることは書き始めて気がついた。レイアウトの工夫をすればもう少し何とかできるかもしれないが、論文のように書くことはできない。Facebookでは量以前に内容がものすごく限定されるので、ブログの方がまだ使いでがあるかと思って始めて見たが、専門家として公に提供できるような情報で、1000~2000字にまとめられるものというのは多くない。近況を知らせるために書いているわけでもないし。メディアとして機能するにはもう一工夫必要だな、と思っています。

量といえば、ニュース番組における識者のコメントが、最近ほとんど民間の研究所(何とか総研、とか)の人で占められているのにお気づきであろうか。おそらく、テレビ局が欲しいコメントを短く提供してくれて、大学の研究者みたいに要領を得ない長いコメントをしたり、事前にチェックさせろとか、発言の趣旨が違うと苦情が来たりとか、そういう面倒もなく、研究所としても宣伝になるし、どちらにとってもよいことばかり、ということなのだろう。どんな重要事項も5秒か10秒で、紙が使われる場合ですら「A41枚」で
すませる社会で、法学のようなタイプの学問をするのは結構空しいことのように思う。

そういうわけで、再生医療法連載のつづきは、近々立教法務研究に掲載されます。ネット上で読めますので、出たら改めてお知らせいたします。

20000字なんて読みたくないですか?そうですよね…

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