月別アーカイブ: 2014年2月

法学者は何を研究しているのか(2・完)

日本というのはとても変わった国で、放っておいても、みんなが他人の都合とか全体の方向性とかを慮って、何となく同じように行動してしまう。「忖度する」なんて言葉、日本以外にもあるのだろうか(ひょっとして若者は知らない言葉かもしれないが、法律家になるなら調べて下さい。「そんたく」です)。

こうした「忖度」文化が、普段の人付き合いにおいて発揮されているだけなら、まだ美しいような気もしないことはないが(嘘です。本当はしません)、国家権力との間でもほとんど同じであるのは、やはり問題だと思われる。

審議会などで議論をしていると、その場にいる委員のほとんどは、「国家と一心同体」である。「秩序の維持は国の規制によって行うべきだ」という前提に立ち、国家の側に立って、「どういう規制を作ろうか」と考えている。権力的な地位にある人が多いので割り引いて考える必要があるが、患者の代表として参加している人などでも、その点は大体同じである。もちろん、私は法学の立場でそうした会議に参加しているわけであるから、それを黙ってみているわけにはいかない。そこで、法学的にはごく標準的な立場を前提に、「その事項に関してはそもそも国には規制する権限がありません」などと発言すると、その場の空気がしんとなり、孤立無援の革命家があらわれた、といった趣になる(もう慣れた)。

独裁を防ぐために国家権力を法の下に置く必要がある、ということは、一般論としては理解してもらえるのだと思う。しかし、日本はなにしろ放っておくと自然に「理想の社会主義国」のようになってしまうような社会なので、誰か(特定の権力者)に支配されている、という感覚がなく、急に「国家権力が…」とかいわれても、全くピンとこないのだろう。私も日本で生まれ育った者であるので、その辺りは一応理解できる。

では、そういう日本では、「独裁」に類する状況での大規模な人権侵害、といった事態が生じないのか、というと、決してそんなことはない。敗戦の前のことは、「誰かが悪かった」ということで処理されているが、日本の人たちは、国家の指導層にとって都合のよいことを、命令される前に、指導層の期待よりはるかに徹底的に実現しただろう。同じことは、アメリカが占領しに来たときにも起こり(もしかして続いており)、行政が科学研究に対して「ガイドライン」を策定したときにも起こっている。われわれがそのように行動してしまう国民である、ということは、もう少し自覚され、反省されてよいと思われる(日本の「おもてなし」精神は、明らかに「お上の意向を忖度する」文化と同根ですよね?)。

日本の人たちが、国家、というか共同体に対する素朴な信頼感を持ち得ているのは、ある時期には幸せなことであったかもしれないが、危険なことである。そして、少なくとも現在の日本では、幸福感にもつながっていないように思う。

このままではうまくいかないと分かっているのに、「みんな」がどこに行くかが分からないので身動きが取れない。「みんな」と違うことがしたいけど、何となくしてはいけないような気がしてできない。それは相当に息苦しい社会である。教師として若い人を見ていてもいつも思う。そんなに周りに合わせなくてよいのに。しかし、そのような社会であることの明確な自覚がなければ、逃れる術もないだろう。そのうえ、「イノベーションを担う人材であれ」「人と違う意見を言え」などと求められるのだから、完全にダブルバインド(二重拘束―二つの矛盾した命令が強要されている状態)である。まともに受けたら、引きこもるしかなくなってしまう(平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)参照。この本とてもいいですよ。若い人たちにとくにお勧めします)。

日本において、共同体と対峙する「個」の発達がとりわけ乏しいのはなぜか、というのは大それた問題設定であるが、「苦労が足りない」ことは関係していると思われる。日本だって戦争や災害で大勢の人が不遇の死を遂げたり、十分に苦労はしてきたじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、共同体とその成員を深く傷つけるのは、その種の被害体験ではない(被害体験はむしろ共同体意識の涵養につながりますね)。歴史の教えるところ、共同体に決定的なダメージを与えるのは、共同体内部での激しく執拗な争いであり、殺し合いである。ヨーロッパは宗教戦争で、アメリカは南北戦争でこれを経験している。個人の人格を尊重する態度、理性による問題解決を信じる態度、寛容の精神(いずれも近代法の根幹をなすものである)は、集団的な信念が恐ろしい被害をもたらしてしまったことへの反省として生まれてきたものだといわれている(と思う)し、そうだろうと思う。

先にも書いたように、人間は共同体の中で生きる動物であり、共同体の存在自体は前提とせざるを得ない。そして、この規模の共同体を維持するのに、国家という仕組みは、さしあたり、必要なものであろう。しかし、集団が秩序を維持していこうとすると、うっかり集団主義が発達し、集団同士で殺し合ったり、内部の者をリンチしたり、戦争を仕掛けたりしてしまう。そういうものなのである。この種のことは、今だって、そこら中で普通に起きている。

共同体の秩序は保ちつつ、そのような事態を防ぐにはどうしたらよいのか。そのための仕組みを研究してきたのが法学である。はっきりいえるのは、権力を特定のところに集中させるとよくない、ということで、そのためには、秩序の維持を国任せにしない態度が絶対に必要である。自由になるということは、一言で言えば、自分たちのことに関して自分たちでルールを作れるようになる、ということであり、それが、市民が長年かけて獲得してきた「自由」の中身である。「公的なことは自分たちが選んだ王様にお任せして、庶民は好き勝手にやらせてもらいます」というのは市民的な自由ではないし、民主的な社会の在り方でもない。日本では、「王様」がしばしば「世間」だったり「みんな」だったりするので、その非民主性が見えにくいが、構造は同じである。

具体的に言いましょう。世間で何か問題が起こった、あるいは起こりそうである(食品偽装とか、いい加減な遺伝子診断とか)。そのようなとき、ニュースのコメンテーターは大抵「国の規制に不備がある」「国の規制が必要だ」と発言する(専門家が出てきてそのようにいうこともある)。これが正に、「公的なことは王様にお任せする」態度である。

「問題」は起こらない方がよいです。もちろんです。しかし、問題解決を安易に国に委ね続ければ、国の権力は肥大し、権力者はいつの間にか法より上に立ち、個人の人格を(例えば研究の自由を、表現の自由を)尊重しなくなる。安倍首相はよく口約束をしますが(「私が間違えなく実行します」「国民の皆さんの人権が侵害されることのないよう適正に運用します」)、これは法ではなく安倍氏個人(人)が国を支配しているのだ、と彼が理解していることを示している。すごく危ういです。

(アメリカ政府による盗聴が問題になったとき、オバマ大統領が、私が口約束をしても意味がないから立法により明確な制限を設ける、というような趣旨のことを言っていたのと正反対の態度である。真っ当なことをいうなあ、と思ったのに忘れてしまったので、もし知っている人がいたら教えて下さい。)

生物系、医学系の研究について、研究者自身、研究者コミュニティによる秩序維持の可能性を探り、サポートし、国の規制をギリギリ必要な範囲に止める策を考える、という仕事が、法学の研究であり、実践であり、また若い人たちがもっとのびのび暮らせる世の中を作るためにとても大事なことである(と少なくとも法学は思っている)ということが、お分かりいただけるであろうか。

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法学者は何を研究しているのか(1)

長い間医学系研究者の方々と仕事をしているが、まだ法学がどのような学問なのか、ということはよく理解されていないと感じる。「世の中のルールに詳しい人」などと思われていると業腹なので(そんな人と友達になりたくないですよね?)、是非とも説明をさせていただきたい。

一言でいうと、法学は、個人と共同体の関係、「個人と共同体の折り合いをどのようにつけていくと安寧に暮らせるか」を研究しているのである。

人間は共同体を作って暮らす生き物であるから、共同体の存在についてよいとか悪いとかいっても始まらない。共同体の存在を前提として考えると、共同体の中で暮らしているのは個性のある人々であるから、個人の利益と共同体の利益が相反したり、他の成員との間で利害が衝突したりすることが当然に発生する。その利害をどのように調整すれば、個人が自由にのびのびと行動できてしかも秩序のある共同体を維持できるか。これが、法学が向き合っている課題である。(どうですか。やりがいのありそうな課題でしょう?)

よくある誤解は「国家が国民を支配・統制するためにどのようなルールを作ればよいかを考えるのが法学者である」というものだが、これほど腹立たしい理解はない。様々な経験をへた結果、法学が一番に気を配るようになったのは、「権力から市民を守る」ことなのである。それなのに、「市民を縛るルールを喜んで作っている人」と間違えるなんて、あんまりではないですか。

横暴な権力者はフリーハンドを欲しがるし、フリーハンドを獲得した権力者は横暴になる。これはほとんど自然科学の法則みたいなものである。そのため、横暴な権力者によって社会が攪乱され、人々の自由が奪われるのを防止するための仕組みが、長年かけて作られてきた。国を支配するのは人(権力者)ではなくて法である(法の支配)という考え方に立って、憲法によって権力を制約する仕組みもその一つである。憲法が表現の自由や学問の自由を保障しているのもそうで、(国家の意向から)自由な表現活動・学問研究は、共同体の健全な運営にとって死活的に重要なことであるが、これらはとくに権力が関心を持ちやすい領域であり(NHKに対する政権の関心を見れば分かりますね)、銘記して保護する必要があるからである。

再生医療法が再生医療等に対して(国による審査ではなく)再生医療等委員会による審査を義務づけるに止めたのは、国が学問研究の内容に直接触ることを避けるためである。もし国が、「その研究には意味がない」「存在するリスクに見合うだけの効果(学問的意義)はない」といってその医療・医学研究を却下するなら、それは「検閲」と同じ意味を持つ。それではまずいので、「再生医療等委員会」というアカデミアを代表する組織に審査を委ね、学問共同体による自律によって秩序を保つ、という方法が選択されたのである。

「自律に委ねる」という仕組みが取られたこと(あるいはそれを支持した私など)に対しては、「性善説だ」という批判が度々なされた。自主的にルールを守ってくれるなんて、そんな人ばかりではありませんよ、と。

そうではない。何しろ私は刑法学者であるから(あんまり理由になってないけれど)、世の中にルールを守らない人が大勢いることはよく知っている(むしろ皆が守るようでは気持ちが悪い、と思うくらいである)。普通の人がつまらない理由でどれほどおそろしい所業に出ることがあるか、ということもよく知っているつもりである。

私たちは「人々は大体遵法的だ」などとは思っていない。そうではなくて、「権力にフリーハンドを与えたら大変なことになりますよ」と思っている。すなわち、「権力性悪説」に立っているのである。(つづく)

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採点を終えて(期末試験)

学生の皆さん。ちょっと周りを見回して、コップがある人はコップを、友達がいる人は友達を見て下さい。

皆さんはどうやって、それを「コップ」であると認知していますか。ガラスでできているから、ですか? では、なぜそれは「ガラス製の湯飲み」ではなくて「コップ」なのでしょう。「小ぶりな植木鉢」とか「凹んだ皿」でもなく?

人がいる人は、どうやってその人を「Aさん」と認識しているのか、考えて見て下さい。ああいう髪型で、目の形がこうで、身長がこのくらいで…といろいろあるかもしれません。しかしおそらく、その人の髪型が変わったり、サングラスをかけたり、高さのある靴を履いたりしていても、その人を「Aさん」と認識することはできるでしょう。どういうことか。おそらく、私たちは普段、ものすごく沢山の情報を総合して「Aさんの本質」みたいなものを捉えているので、多少外形が変わったからって、Aさんを認識できなくなることはないのだ、ということでしょう。

もしかして、すごく急いでいたり、慌てていて「赤い髪がAさん、赤い髪がAさん…」と思って探していたら、髪を黒く染めてやってきたAさんに気がつかないことがあるかもしれません。この場合でも、落ち着いてよく見れば、「やっぱりAさんだ」ということは、誰でも分かるはずです。ね。

私が何を言いたいのか。もうお分かりの方もいるかもしれません。

今回の経済刑法の問題では、非常に多くの方が、背任の成否を論じていました。幹部会の決定を介して第三者にお金を振り込んでいる、というその部分の現象を見ると、「よし。横領と背任だ。それで、幹部会の決定に基づいてその口座から振り込まれているんだから、背任だな」となるかもしれません。

冗談じゃありません!その判断は、コップを見て、「これは湯飲みの形をしていてガラスでできているから、ガラス製の湯飲みだ」というのとまったく同じです。

詐欺かも?と思ったが、それを打ち消した、という人もいたようですね。それは、たとえていうと、「何かちょっとAさんみたいだけど…でも髪が黒いからAさんじゃないはずだ。髪が黒いのはBさんだから、Bさん、てことにしておこう」というのと同じです。

要するに、一言で言うと、ばかげています!

* * *
試験後に何人かの人と話をしたが、落ち着いて考えればみんな分かるのである。「言われてみるとそうですね」。どうやればこうした馬鹿げた推論を回避できるのか。

論点を詰め込んで勉強していてそれを吐き出しているからそういうことになるのだ、というのはそうだろう。しかし詰め込み勉強もある程度は必要なので、詰め込んだ知識と常識を共存させる術を編み出す必要がある。

最後の「何かちょっとAさんみたいだけど…でも髪が黒いからAさんじゃないはずだ。髪が黒いのはBさんだから、Bさん、てことにしておこう」という例が分かりやすいかもしれない。「Aさんの髪は赤い」「Bさんの髪は黒い」というのは、Aさん、Bさんを識別するために有用な一つの情報である。しかし「髪が赤ければAさん」「黒ければBさん」という話でないことは明らかであろう。Aさん、Bさんという人格にはもっともっと豊かな実質があって、私たちは通常その実質に直にアクセスしている。髪の色、というのは、役には立つけれど、その実質から見れば些末な一つの情報に過ぎない。

犯罪構成要件とされている各要素や犯罪の識別に関する各種情報というのも、言ってみればそのようなものにすぎないのである。それらは、客観的に犯罪を識別するための指標として開発されてきたものであるけれども、部分的な情報(髪の色とか)によって全体(Aさん)を捉えるという方法には、絶対的な限界がある。そうした指標を用いた判断は、つねに、「落ち着いて考えてその本質を捉える」という総合的・直覚的な判断に補完されなければならない。というより、そうした指標の方が、総合的・直覚的な判断を補完するものだ、と私は思う。そういうわけなので、いろいろな要件や情報を身につけるときは、ただそれを理解して丸暗記する、というだけでなく、これはどういう犯罪なのか、その本質にアクセスしようとすることが大事である。別に難しいことではない。イメージを掴む、という程度のことだ。

試験の時に落ち着いて考えている余裕なんてありません、と思いますか?いやいや。そんな人こそ、試してみる価値があります。何しろ「直覚」できてしまうのだから、時間は全くかからない。一瞬でできるのです。それを身につけた知識でもって検証していく、というのが順番です。

この話は前回の「抽象化」と深く関係していますね。

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