月別アーカイブ: 2014年3月

必要なのは医師を免責する法ではない―尊厳死法制化の動きについて

*ブログというより意見書的なものになりました。いずれより見やすい形に整理するつもりですがとりいそぎこの形で。

1  はじめに

「尊厳死法制化を考える議員連盟」(会長・増子輝彦民主党参院議員)が、終末期患者が延命措置を望まない場合、医師が人工呼吸器を取り外すなど延命措置を中止しても、法的責任を免責する「尊厳死法案」をまとめ、今年の通常国会に議員立法で提出する方針を固めた、という報道がなされている。尊厳死法制定は議員連盟の長年の悲願のようであり、現在の政治情勢においてなら実現できるかもしれない、と期待されているのかもしれない。

医師が刑事訴追をおそれる気持ちは分かる。また、終末期においてしかるべき手続を経て人工呼吸器等による治療を中止する行為が処罰の対象となるべきでない、という価値判断も妥当であると思う。しかし、その上で、専門家として述べると、現在の状況では、なされるべき立法は「医師を免責する」趣旨のものではない。この問題をめぐる法的環境の変化については、法学者の間ではある程度理解が共有されていると思うが、一般向けの解説がないように思われるので、刑法学者としてお伝えするべきことをお伝えしたい。

2  最高裁は「法律上許容される治療中止」を認めている

まず、ほぼ確実にいえることは、現行法の下でも、「議員連盟」が免責の対象としている行為(死期が切迫していて回復可能性のない患者について患者の意思に基づいてその治療を中止する医師の行為)が処罰されることは考えられない、ということである。

治療中止行為の許容性については、平成21年の最高裁判例がある(川崎協同病院事件上告審決定(最決平成21年12月7日刑集63巻11号1899頁))http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091209113834.pdf

かなり早い段階で独善的に「自然に死なせるのが本人のためである」と考えて、家族をその方向に誘導するようにして医師が治療を中止してしまったこの事件については、第一審から最高裁まですべてが有罪を言い渡している(殺人罪としての処理が妥当であるかは後で述べる)。しかし、先例として見たときに、重要なのは、この判例において最高裁が「法律上許される治療中止行為」というものの存在を認めた点である。

最高裁は、「被告人が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後、本件抜管時までに、同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず、発症からいまだ2週間の時点でもあり、その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかった」こと、加えて「被害者は、本件時、こん睡状態にあったものであるところ、…抜管は…家族からの要請に基づき行われたものであるが、その要請は…被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく、…抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない」ことを理由に、「法律上許容される治療中止」としての正当化を否定した。この事件では、患者が終末期にあることも、患者に治療中止の意思があることも、どちらも適切な手続によって確認されていない、ということが、有罪と認定する理由となっている。これは、裏を返せば、適切な手続を経てこれらが確認された場合には正当化が認められる余地があることを、最高裁が肯定した、ということにほかならない。

これまで、医師による治療中止行為が裁判で争われたことはなく、この点について最高裁がどのような立場に立っているのかは明確ではなかった(東海大安楽死事件では、最後に心停止作用のある薬を投与した行為だけが起訴されたので、その前に行われた治療中止は直接の争点ではなかった。横浜地裁は治療中止行為についても一定の判断を示したが、一審で確定したため上級審の判断はなされなかった)。その間、とくに医療の世界では、「治療をしないことは不作為だから処罰されないが、すでに開始されている治療を中止するのは作為だから犯罪になる」といった生半可な法解釈(すみません…でもそう思う。しかしこの状況に真剣に向き合わず解釈を正さなかったのは法学者の責任である)が浸透し、医療現場では、本人も家族も医師も、誰もよいとは思っていないのに治療を中止できない事態がしばしば生じていたと聞く。このような中で、最高裁が、治療中止という「作為」を正当化する可能性を認めたことは、非常に大きな意味を持つことなのである。

3  手続についてはガイドラインがある

上記最高裁は「法律上許容される治療中止」の存在を認めたが、その要件を具体的に示すことはしていない(これには不満の声もあるであろうが、治療中止の許容要件は衆知を結集して議論されるべき事項であり、要件を示さなかったのは裁判所の見識である)。しかし、この点については、すでに相当信頼に足る議論の蓄積がある。

川崎協同病院事件や射水市民病院事件では、医師が自分一人の判断で治療を中止していたことが、問題の大きな要素を占めていた。そこで、これらの事件を教訓に、行政や医学会において、終末期の治療方針を決定する際の適正なプロセスを検討する動きが活発化し、厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年5月)、日本救急医学会「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)(2007年11月)、日本小児科学会「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話合いのガイドライン」(2012年4月)、日本老年医学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン―人工的水分・栄養補給の導入を中心として」(2012年6月)等に結実している。川崎協同病院事件以降、殺人罪で立件されうるような事案が表れていないのは、これらのガイドラインが事態の改善に寄与したためと考えてよいと思われる。

これらのガイドラインは法律ではない。しかし、これらは、患者の病状を適切に評価し患者の意思を尊重するために医療者が従うべき最善のプロセスを示すもの(少なくともそれを目指すもの)であり、これらに従ってなされた治療中止行為が起訴され有罪とされることは事実上考えられない。プロセスに関するガイドラインが示されたことに加え、最高裁が「法律上許容される治療中止」の存在を明確に認めたことによって、しかるべき手続を踏んで行われた治療中止行為が法的責任を問われる蓋然性は限りなくゼロに近づいたといってよい。

したがって、医療関係の方々には、法の威嚇に怯えることなく、よりよい終末期医療を目指して議論と実践を重ねていただきたいと思う。そうして不断にガイドライン類が改良されていくことが、より安定的な秩序を形成していくための最善の方法である。

4  どのような立法が必要か

繰り返しになるが、現行法の下でも、適切な手続にしたがってなされた治療中止行為が法的責任を問われることは考えられない。その点では、お医者さんたちには安心していただいてよい。ただ一点、不安定さが残るのは、ガイドライン等が定める手続に違反して行われた治療中止行為の扱いである。

終末期医療に関する特別の法制度がない現状では、手続に問題のある行為は、殺人罪として訴追されることにならざるを得ない。前項で述べたように、上記の各種ガイドラインは、「医療者が従うべき最善のプロセス」を示す趣旨のものであるから、それに反したからといって直ちに犯罪として扱うのは妥当ではない。しかし、殺人行為を正当化する事由として「治療中止」が議論され、その正当化要件には各種手続が含まれるという判断を最高裁がしていることを前提とすると、検察官は手続違反を殺人罪で起訴せざるをえないであろうし、裁判において有罪とされるおそれも否定できない。

もちろん、死期の切迫性や回復不能性が明らかに認められないとか、本人の意思に反しているとかいう場合には、殺人罪の成立が認められるべきである。しかし、死期の切迫性の判断を医師が単独でしてしまった、といった手続違反を、いきなり殺人罪で処罰する、というのは穏当ではないと思われる。

この問題は、終末期医療における意思決定を適切に行うためのプロセスを定めた法律を作り、重要な手続の違反に対して罰則を設けることで解決できる。そのような特別法があれば、死期の切迫性や本人意思を欠いていたことは証明できないが、重要な手続違反があった、という場合、医師は特別法違反の罪に問われるに止まり、殺人罪で起訴されるのは、実体として治療中止がなされるべきでない状態の患者の治療が中止された場合や、本人の意思に反して中止された場合等に限られることになる。

終末期医療が「問題」化する根本的な原因は、患者側(国民一般)の医師に対する不信感にある。「患者のリビングウィルがあれば医師は免責される」といった制度を設け、医師にある種自動化された判断を許すなら、医師の信頼性はむしろ損なわれる結果になるであろう。現在必要なのは、医療者を支援してその信頼性を高め、患者には安心の材料をもたらすための法制度であって、医師を免責するための法律ではない。

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生きる力

今日は大学の卒業式だった。私は「訓示」を垂れるような立場ではないけれど、卒業していく学生さんたちに何か言うとしたら、「生きる力を大切にして下さい」と言いたいと思う。ローの卒業生なのでとりあえずは司法試験のことで頭がいっぱいだと思うが、人生は続くのだ。
 
生きる力っていうのは、そうですね、一言でいうと、一人で外を歩いているときに、何となく気分がいい、というようなことでしょうか。やたらと気分がいい必要はない(それはむしろ怪しい)。ただ、とくに人目も気にならず、居場所がないような心地の悪さもなく、スマホをいじらなくてもみじめにも感じず、普通にその場にいられる。眠いな、とか、水が飲みたいとか、普通の自分の身体の欲求を普通に認識できる。そういう状態を支えているのが、身体の内側からくる充実感、といった感じのもので、それが根源的な「生きる力」であると私は思っています。
 
スナフキンもいっています。「たいせつなのは、じぶんのしたいことを、じぶんで知ってるってことだよ」。スナフキンは「夢を持ちなさい」とか、そういうレベルの話をしているのではありません。スナフキンがこの言葉を発したのは、ミイが「あたい、またねむくなっちゃったわ。いつも、ポケットの中が、いちばんよくねむれるの」と言うのを聞いたときで、こう答えながら、ミイをポケットに入れてあげました(『ムーミン谷の夏まつり』より)。
 
そこらをうろうろしている猫を思い浮かべるとよいかもしれません。猫は一人でいて、充足しています。他人のために行動したり、他人の評価を気にしたりしないけど、「自分は世界に受け容れられている」と感じていると思います。人間も、この感覚さえあれば、社会生活上どんなに不都合なことがあっても、そこそこ気分よく生きていけます。反対に、これがなくなると、いつも他人の目が気になり、ちゃんとしているか、自分で自信が持てなくなる。いつも誰かとネット上でつながっていないと安心できなくなったり、社会的な評価を求めてひたすら仕事をしたり、誰かの指示がなければ行動できなくなったりしてしまう。「生きる力」がもっともっと致命的に損なわれると、征服欲をみたしたり、他人からの注目を集めるために、強姦や殺人といった犯罪に走ってしまうことにもなります。外国人排斥運動のようなものも、自分に価値があると実感できない人々が、「日本人であること」に存在意義を見いだそうとして起こすものでしょう。「生きる力」を養うことは、その人にとっても、共同体にとっても、もっとも、といってよいほど、とても大切なことなのです。
 
日本の社会は「生きる力」を涵養するということに無頓着だな、と思います。それで、生命力が損なわれて、生きづらさを感じている若い人がたくさんいると感じます。うつになったり自殺をしてしまう人もたくさんいる。
 
こういう自足した感覚の根っこは、やはり、子どものころに作られるものだと思います。子どものころ、不安を感じて泣き叫べば誰かがあやしてくれて、食べ物をくれる。歌いたいときに歌い、スキップをしたければする。自分の内側から来る欲求が肯定され、内的な必然性にしたがった行動が受け容れられる(放っておいてもらえる)。それによって、自分は世の中に受け容れられているという確固とした感覚が根づき、自分の内的必然にしたがって行動する、基本的な力が養われるのだと思います。
 
今の社会の顕著な特徴は、何か知らないが時間がない、ということです(市場主義の帰結だと思いますが、長くなるのでとりあえず措きます)。時間さえあれば、子どもはどっか適当なところで勝手に「生きる力」を養うことができる。私が育ったのは1970年代で、高度成長のおわりの方ですが、それでも、今と比べれば大分のんびりしていたと思います(ただ、もっと上の世代と比べて「生きる力」が弱いと感じるのも確かです)。
 
時間がないということは余裕がないということとイコールで、今の子どもは相当に小さいときから、秩序にしたがって行動するよう管理されています。電車の中で、隣に座った赤ちゃんが(もちろん親が抱えていますが)、こちらに興味を示して手を伸ばしてくることがありますね。そうすると、親御さんは必ず、「そっちはだめ」というように手を阻みます。電車の中はサラリーマンばっかりだし、ビジネス的な社会秩序を乱してはいけない、と思うからでしょう。その結果、子どもはこんなに小さなときから、「他人に自由に働きかけたらだめ」と教わっているわけです。
 
日本の幼児、初等教育機関(その後もだけど)は、まず第一に、子どもに「静かに座っていること」を教えます。「文句を言わず大人しく座っていること」「先生の言われたとおりにすること」を教え、「そうすれば立派な社会の一員と看做される」という思想を教え込むのが、日本の学校教育です。子どもなのだから、「生きる力」をどんどん使わせて育てなければいけないのに、制限する方向の「教育」しかしないのが学校です。学校以外にのんびりした時間がたくさんあればそれでも機能するのかもしれない。しかし、現代は、何か知らないけど時間がなくて誰にも余裕がないので、社会が一丸となって子どもを管理する結果になってしまう(これも別に論じるべきことですが、幼児・初等教育は子どもを労働から守るのを役目と心得て、社会から隔離して好き放題にさせるのがいいと思っています)。
 
社会に出たら出たで、ちゃんと組織に入って人並みに働け、とか、効率よく働け、成果を出せ、といって管理されます。こういう社会で楽しく生きていくためには「生きる力」が損なわれないように自分で日々ケアをする、ということが、決定的に大切なことだと思うのです。最初からこんな風に考えていたわけではありませんが、私はこの点にかなり気を遣って生きてきました。本日はお祝いの日なので(?)、その秘訣を特別に伝授したいと思います。
 
1 無理はしない :これは大事!どこまでが「無理」かを判断する基準は自分で持っていないといけないわけですが、人間関係においても、仕事においても、楽しくない無理はしないことです。無理を続けていると、楽しいかどうかもこれが無理なのかどうかもすぐに分からなくなってしまうので、身体を基準にして判断することです。体調が悪ければ、どうしてもやる気がでなければ、いくら他人に期待されていても、休んだり、適当にやり過ごすことです。我慢をしなければならないような人間関係からはさっさと身を引くことです(相手が親でも!)。わがままではありません。そうしないと、「生きる力」が減ってしまうのです。
 
2 私生活を大事にする :これも私がとくに(振り返ってみると)こだわってきた部分です。家を適当にきれいに保ち、必要なだけ寝て、食事をおいしく取ることは、幸福の基盤です。あくまで自分の基準で「適当に」ね。実家暮らしの場合はちょっと別の部分がありますが(親の秩序に過度に順応することになるおそれが)。私は自分でもときどき「専業主婦なんじゃないか」と思うほどの家事ぶりで、毎晩家で2時間近くかけて食事をしています(遅くに)。仕事第一、という価値観からは問題がありますが、生きる力第一なのでよいのです。
 
3 身体を快適な状態に保つ :抽象的な言い回しになってしまいましたが、身体の状態がよければ気分がよい、というのは真実です。私が気を遣っているのは、(1)骨格を整える(整体的なこと)、(2)適当に活動量を保つ、(3)腸の状態がよくする、の3つです。(1)と(3)が分かりにくいかもしれませんが、自分の実感でも、精神的にすごく追い込まれているときは、身体が固くなっていたり歪んでいたりして、呼吸が浅くなっています。自分でも腹式呼吸とかストレッチとかでケアをしますが、整体師さんとかに頼るのも一つの方法です(本は整体の代わりにはなりませんが、片山洋次郎『整体かれんだー』はお勧め)。とくに姿勢や骨格は自分では何が正しいか分からなくなってしまっていることが多いので、何となく体調や精神状態が悪いというときにロルファーとか整体師に診てもらうのはお勧めです。(3)は腸です。腸の状態は、幸福度と直結しているといわれていて(ストレスはたしかに腸の健康を悪化させますから、逆もいえる、ということかもしれません)、自殺率と関わりがあるという調査結果があるほどです。ストレスを貯めない、というのは難しくても、食物繊維をたくさんとって、納豆やヨーグルトで菌を補給することは簡単にできます。そうやって地道に、身体を整える、ということが、精神的な安定につながります。
 
4 他人を喜ばせるために生きない :とくに女子!あと親に反抗したことのない人!女子は子どものころから「かわいくあるべし」という価値観の中で育つので、どうしても他人の評価によって自分の価値を判断しがちです。男の子でも、家庭環境によってこういう風になることは結構あるみたい。それがやる気につながったりすることももちろんあるけど、でも、他人の評価は「おまけ」だと思った方がよいです。他人の評価に合わせて自分の行動を決めていると、他人が評価してくれなくなったときに大変痛手を負いますし、どうしても無理をすることになります。何より、それでは誰の人生を生きているのかよく分かりません。これをやっていると、自分というものがなくなってしまって、世間と軋轢を生じたり疲れたりしたときに本当に死にたくなったりしてとても危険なのです。いつも基準は自分の身体に置いて下さい。身体の感覚なんて分からない、という人もいるでしょうが、分かろう、として下さい。
 
5 こまめに楽しいことをする :観念的な楽しみではなくて(多分、酒とかお菓子とか美食とかゲームは観念的です)、自然に近いところに行くとか、ちょっと身体を動かすようなのがよいです。
 
大体こんな感じかなあ。
 
努力しろとか仕事しろとか、他人に優しくとか、友達と仲良くとか、そういうことは言いません(自分もしてないし)。
なぜかというと、こうやって生きる力を培っていると、外に出て行く元気ややる気がいつもそこはかとなくある、という状態になるので、放っておいても、それなりに社会の役に立つようなことをしてしまいます。だからとにかく「生きる力」第一でお願いします!
 
〔追記〕大事なことを忘れていました。それは「足を温める」です。身体が冷えるとロクなことはなく、冷えは足下から来ます。騙されたと思って無闇に足下を温めてみて下さい。最近知ったことですが、小林秀雄も色紙に「頭寒足熱」と書いていたそうです(せめてもの権威づけです)。
  
 
 
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ES細胞の基礎研究が行われていない

昨日理研BRCの倫理委員会で知ったことであるが、ES細胞を用いた基礎研究があまり行われていないらしい。唯一の分配機関である理研(ですよね?)で、今年度分配が「なし」ということは、自前で作って持っているところ以外ではほとんど行われていないということだろう。

これだけ「再生医療」が盛り上がっているのに、肝心のES細胞を使った基礎研究がなされていないというのはおかしなことではないのか。大丈夫なのだろうか。

ES指針はしばらく前に作成・分配指針と利用指針が分離され、利用の方は悪名高い「二重審査」の対象ではなくなった。それでも、国に届け出は必要であり、使う側としては相当に「余分な手間」であるのだろう。

機能的にはiPSと変わらない、という前提であるなら、ESに特化した利用指針はなくしてしまってよいのではないか(前からこういう主張はしていたような気もするが自分でもちょっと忘れてしまった)。ES細胞特有の倫理的課題は、作るときに胚の提供を受ける必要があり、またその胚を壊さなければならない、という点に尽きる。使うところでは「大切にね」という以上のことはないはずで、それはあえて国が確認しなければならないほどのことではないであろう。

再生医療等安全性確保法との関係で、ES指針の在り方も見直されるはずなので、忘れないように書いておいた。

〔加筆〕ESもそうだし、再生医療等安全性確保法もそうだが、フォーマルな手続を多数必要とする厳格な規制をかけると、人的資源が豊富で再生医療等研究の経験のある大きな研究機関以外での研究が非常に難しくなる(要するに新規参入が妨げられる)。新規参入がなければ問題が起こることはないだろうが、研究の進歩もない。再生医療関連の立法が、大きな研究機関の既得権を守り、闊達な研究を妨げるものになってしまっては(なっている、と思うのだが)、いくら資金を投入しても将来は望めない。

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アンネの日記を破ると建造物侵入罪?

アンネの日記を破ったかもしれない人(以下X)が建造物侵入罪容疑で逮捕された、という報道が昨日あったが、今日は器物損壊罪で再逮捕されたという。器物損壊はともかく、なぜ建造物侵入罪なのか、疑問に思った方がいるかもしれない。そうなんです!これはわが国の刑法解釈が必ずしも穏当に、あるいは条文の趣旨に忠実に、あるいは市民の権利を不当に害しない方向では行われていないことを顕著に示す一例である。私は日本の裁判所は概ね刑法を適切に解釈していると考えているが、この件を思うと「やっぱり日本の司法って信用できないのかも」という気持ちになってしまう。大問題なので、ぜひ多くの方に知っていただきたい。

刑法130条 正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。

これはいわゆる住居侵入罪の規定である。邸宅、建造物、艦船については「人の看守」がある場合、つまり、門衛がいたり扉が施錠されていたりして「入らないでね」という(人の)意思が表示されている場合のみ客体になる。住居等に勝手に入ると処罰されるのは、住居は私生活の場であって、そこに踏み込まれないという利益は、プライバシーの中でももっとも高度な利益であるからである(刑法は住居侵入を犯罪とするがプライバシー侵害行為一般を処罰しているわけではない)。建造物も「人の看守」がある場合には、それに準ずるものと扱われている(この辺りは議論をすると長くなるのでこのくらいにさせていただきます)。

もちろん、人は住居に他人を招くこともあるわけで、住人が「いいよ」といっている場合に犯罪を成立させる理由はない。そのため、住居侵入罪にいう「侵入」は「住居権者の意思に反する立入り」であると定義されることになった。しかし、この定義がある意味で「濫用」されて、同罪の成立範囲はどんどん広がっているのである。

下級審(最高裁以外のこと)の裁判例はかなり前からその傾向を示していたが、平成19年に最高裁判例が出てその方向性が固まってしまった。最高裁は、ATMの利用客の暗証番号を盗撮する目的で銀行の出張所(営業中)に入る行為に建造物侵入罪を認めたのである。

ATMが並んでいるだけの無人の出張所ですよ?
誰に対しても「どうぞお入り下さい」と開かれているところである。例えば、ホームレスの人が入って中で寝るのは銀行からみると問題であろうが、それでも入る行為が「侵入」であるとはいいがたい。ガードマンが来て「出て行け」といってもなお出て行かなければその時点で「不退去罪」が成立する。それが刑法130条の普通の読み方である。

しかし、判例は、盗撮目的での立入りは銀行支店長の意思に反する立入りである、という理由で、(盗撮について業務妨害罪を認め、それに加えて)建造物侵入罪の成立を認めた。この理屈でいくと、万引き目的でコンビニに入って万引きした場合、窃盗罪だけでなく建造物侵入罪が成立することになる。いったい、銀行出張所やコンビニへの立入りそのものによってどのような利益が侵害されているというのであろうか。盗撮は業務妨害で処罰され、万引きは窃盗罪で処罰される。それらの被害とは別に何らかの害が発生しているとは考えられない。管理者はあとでその事実を知れば不愉快に思うかもしれないがそれで犯罪というわけにはいかない。

Xは(日経新聞によると)「アシスタントとゴーストライターは違う」(何だ?)などと書いたビラを貼る目的でジュンク堂書店に入った事実について、建造物侵入罪の容疑で逮捕された。ビラを貼る行為はそれだけでは犯罪ではないが、ジュンク堂はおそらく店内でのビラ貼りを認めていないので(普通の店はそうだろう)、ビラ貼り目的での侵入は(判例の立場によれば)「管理者の意思に反する立入り」ということになる。それで逮捕をしてしまって、取り調べをして(別件です)、器物損壊の容疑で再逮捕、ということであろう。逮捕による身柄の拘束は警察24時間検察48時間の併せて72時間が限度であり、その間に勾留請求をして認められれば10日間(1回は延長可)身柄を拘束できる。別の被疑事実によって再逮捕すればもう一度この手続を続けることができる。どう考えても器物損壊が本丸なのに、あえて建造物侵入を別に立てることによって、長期の身柄拘束が可能になる。建造物侵入が訴追されるかどうかは分からないが、これだけで十分に不当である。

「管理者の意思に反する立入り」がおしなべて建造物侵入であるとすると、「入れ墨おことわり」の銭湯に入れ墨を隠して入る行為は建造物侵入になる。とはいえ、おしゃれのために入れ墨をしている人の入場が発覚したとして、捜査機関が建造物侵入で逮捕することはないだろう。しかし暴力団員であれば分からない。同じ行為をしたときに「普通の人なら犯罪ではないが暴力団員なら犯罪」というのは差別的な取扱いであって不当ではないだろうか。暴力団対策として暴力団員の銭湯利用を禁止する法律があるならまだ分かる(その立法は憲法上許されない気がしますけど)。しかし、処罰に値するかしないかの判断は、捜査機関が勝手にするのである。

これまでのところ暴力団員による銭湯利用やゴルフ場利用に建造物侵入罪を認めた例はないようである(何と驚くべきことに暴力団員であることを隠したゴルフ場利用について詐欺罪は認められているのだ!下級審であるけれども)。しかし、その特定の暴力団員を捕まえたい積極的な理由が何かある場合には、日本の捜査機関は建造物侵入の容疑で逮捕することを辞さないだろうと思う。暴力団員には限らない。「ビラ貼り禁止」という建造物はたくさんある。一般市民が「犬を探しています」というビラを貼っても注意をされるだけであろうが、特定の思想傾向の人がビラ貼りをしていたら、建造物侵入容疑で逮捕されるかもしれない(実際に「共同通信会館」(共同通信社のほか銀行や飲食店、各種商店が入居していて一般人が自由に入ることができる)にビラ貼り目的で立ち入る行為に建造物侵入罪が認められた例がある(東京高判昭和48年3月27日東高刑時報24巻3号41頁))。

刑法学者の多くはこうした実務に反対している。ただ、理論の弱さがこうした拡大解釈を許している面もあり、これは自由に対する罪全般に共通する、結構深刻な問題であると思っている。専門的すぎるのでこれ以上は書きませんが、5月刊行予定の町野古稀に書いたのでご関心のある方はご覧下さい(宣伝になってしまった)。

最初、ジュンク堂でも本を破ったのかと思っていたのでこのようなタイトルになったが、新聞を確認して誤りに気づいた。でも実質はあまり変わらない。

 

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各種委員会の委員構成――主に「男女比」について

内閣府総合科学技術会議生命倫理専門調査会の会合があった(昨日)。この会議は大変女性の比率が高く、メンバーの半分くらいは女性なのであるが、昨日は出席者13人のうち6人が女性であった。私は男性が圧倒的に多い会議に参加することが多くてそういう状況には慣れているし、別段それで発言がしにくいと意識したこともない。しかし、昨日の会議は、なんだかとても発言がしやすかったのである。

話題がES細胞関連であったことが一つの理由であろう。ES細胞の利用において受精卵提供者の心理的負担への配慮が必要であることは一般的に理解されていることであるが、どの程度それを深刻に受け止めるかという点において、男性一般と女性一般の間で差異があると感じる(あと、とくに男性の場合は世代差がかなりあると思う。こういう委員会では女性は比較的若いうちに登用されるが男性はそうでもないため、男性の方が年長であることが多い。これはこれで問題である)。

重要な事項であれば、その場の全員が男性であって十分な理解を得られる見込みがない場合でも発言はする。しかし、どこまでも追いかけるかといえばそれはしない。会議におけるコンセンサスというのは、わが国においては場の空気によって形成されるのが通常なので、感覚・感情に深く根ざした議論を要する問題について、前提となる感覚が相当異なる場合、短時間の議論で相手を説得できる見込みはほとんどない(誤解のないように申しますが、時間をかければ相互の理解は可能であると思うし、本当はそのような議論がなされるべきである。しかし残念ながら行政の委員会はそのような議論の場ではない)。そんな中でしつこく発言しても、自分が疲れるだけで―まったく理解されない、あるいはとても重要だと自分が思っていることについて軽くあしらわれることの心理的なダメージは大きい―、その議論自体にとってもよいことはないので、それをする気は私にはない。

現在、ES細胞の臨床応用に向けた議論は、生命倫理専門調査会と、文科省の委員会内WGの双方で行われている(私は両方に参加)。文科省のWGの方は、少人数であることもあって、女性は私一人である。この問題に関しては、正直にいって、後者のWGでは発言を遠慮することがある。ちょっと面倒だな、と思ってしまうのだ。

わが国における「場」の重要性、「場の空気」の重要性を考えると、会議に女性が複数いるというだけでは全然足りない。半分近くはいてほしい。

これは性別以外の属性にも当てはまる話であるが、性別はとくに重要だと思う。女性と男性では、他人の話を聞く態度がかなり大きく違い、それが発言のしやすさに直接的に影響を与えるためである。女性は総じて、発言の中身だけでなく、身振り手振りや表情や雰囲気などを含めて他人の話を受け止めようという姿勢がある。話をする人の顔をよく見ているし、目線や動作によって共感が態度に表れる。聞き手の存在というのはとても大きくて、私の場合、傍聴者の中に共感的な聞き手がいるだけで(男性の場合も女性の場合もあります)話がしやすくなるくらいなのである(傍聴者は委員にいきなり目を見て話しかけられて動揺しているかもしれませんが…)。話をするときに、共感を求めるかどうかも、おそらく結構性差がある。でも男性だって、相手がよい雰囲気で話を聞いてくれている方がよいと思うのだが(でも何か「対立を楽しむ」という感じが一部の男性にはありますよね。あれはちょっと私は慣れられない)。

とくに議長にもっと女性を登用するとよいと思う。

 

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「疫学的因果関係」の誤解―疾患原因の科学的証明とは

「医学的根拠」が盛大に誤解されている、という本を読んでびっくりした。法学にとっても非常に重大な問題であると思われるので、私の理解したところを説明させていただく。私が無知なだけならよいのだが、そうではなさそうである。

(以下引用を含めて全面的に 津田敏秀『医学的根拠とは何か』(岩波新書、2013年)*)
  *ただし必ずや誤解があると思うので気づいた方は教えて下さい。

日本の裁判所は、疾患の原因について、次のように述べている(類似の判示は一般的です)。
「疫学調査の結果算出される相対危険度及び寄与割合は、集団を対象とし、疾病と要因との間の一般的な関連性の程度を定量的に表現するために算出されたものであり、曝露群に属する特定個人の疾病発生原因を判定することを目的としたものではなく、したがって、これらの数値のみによって個人の疾病罹患原因を判定することはできないものというべきである。」(東京高判平成17年6月22日)

法学研究者もつぎのように書いている(私もまったくこのように理解していました)。
「疫学的因果関係の特質は、集団現象としての疾病についての原因を記述するのみであり、その集団に帰属する個人の罹患する疾病の原因を記述するものではないという点である。換言すれば、疫学的因果関係が認定できたとしても、具体的な個人の罹患した疾病の原因が何であるかは、そこからは直ちに導き出すことはできないのである」。
    (新美育文「疫学的手法による因果関係の証明」ジュリスト866号or 871号)

私に関していうと、疾患に関して因果関係が分かるということは、メカニズムが分かるということだと何となく思っていた。疫学研究というのは、そのようなメカニズム解明に向けて、仮説を立てるために存在しているのだ、と(これも何となく)思っていたような気がする。こういった考え方は、日本では医学界も含めてかなり普及しているようなのだが(津田氏は「メカニズム派」と呼んでおられる)、これは全くの誤解で、両者の関係は正反対だそうなのである。

個人の身体において、「タバコを吸ったことが肺がんの原因であったか」を明らかにするためには、その人について、まったく同じ条件の下で、タバコを吸った場合と吸わない場合で身体に起こる変化を観察する必要があるが、そんなことは不可能である。

これは動物実験などでメカニズムについて仮説が立てられていた場合でも同じで、ある人において、「タバコを吸い続けた」事実と「肺がんが発生した」という事実が観察され、動物実験においては両者に関連があることが知られていたとしても、その人の身体において、前者が後者を引きおこした事実は証明できない。

「メカニズム派」としては、「当該個人」が無理でもせめて「人」におけるメカニズムを、と考えたくなるが、発がんの原因物質と目される物質を人体に投与した上に、大勢の人についてまったく同じ条件で生活させるのは倫理的にも実際上もありえない。結果が出るまでに時間がかかりすぎるという問題もある。

そうすると、人について疾患の原因を解明するためには、なるべく多くの人を一定の条件で揃えてグループ分けし、比較対照して確率の差を割り出すしかない。疫学研究である。ふむ、確かにそうですね、と私は思うが、大丈夫だろうか。

「Evidence-Based Medicine」というのは、臨床研究のデータ分析以外に医学が証拠として依拠しうるものはない、という宣言であるそうだ(私は単に「直感で判断するな」という標語なのかと何となく思っていたが、そうではなかった)。

1992年の論文「Evidence-Based Medicine:A New Approach to Teaching the Practice of Medicine」(マックスマスター大学ガイアットほか EBMワーキンググループ)の冒頭の言葉が引用されている。

「根拠に基づいた医学は、直感、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理づけを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を受容しする。」

先に引用したような、法学の「疫学的因果関係」の理解は、疫学的な分析以外に、個人の疾患に対する因果関係を明らかにする何らかの証明手段が存在するという前提に立っている。しかし、実際にはそのような手段は存在しない。したがって、疫学が提供する統計学的な差を因果関係の証拠として認めないということは、因果関係判断において科学的証明を証拠として認めないことにほかならない、ということなのである。「疫学の結果を個人の因果関係に適用できないと主張することは、一般法則が個々の観察データに適用できないと言うことと同じである」(津田・82頁)。これはちょっと、大変なことではないだろうか。疫学的な証明を否定した場合、おそらく、裁判所が実際に採用するのは直感的判断だ、ということになるはずだ。

動物実験等によるメカニズムの解明や、臨床経験は、人の疾患原因についての仮説の構築に役立つものである。しかし、それ自体は、人の疾患原因の直接的な証拠となるものではない。それらをもって「個人の因果関係」を判断することは、直感的判断でしかない。「そうなのか!」と私は法学者として非常に驚き反省したが、そうした直観的判断が跋扈しているのは医学の世界でも同じだという。

日本の医学界は動物実験等によってメカニズムを知ることに強いこだわりがあり、疫学研究で(例えば発がん性の)証拠がはっきり示されていても、発がん物質としての認定が見送られる傾向があるという。胃がん対策としてのピロリ菌除菌措置の遅れも、水俣病の原因食品である水俣湾産の魚の摂食規制ができずに被害を拡大させたことも、乳児突然死症候群防止のためうつぶせ寝に警告を発するのが遅れたことも、この点と関係があるという。

何日か前に、厚生労働省の子宮頸がんワクチン検討会が、ワクチン接種後の痛みについて、ワクチンの副作用ではなく「心身の反応」であると結論したという報道があった。同時に、海外の複数の研究者が「ワクチンが原因である可能性が高い」と述べたが(違う意見の海外研究者もいたそうである)、日本の医師らは「科学的証拠が乏しい」と否定した、とも報道されていたので、これもひょっとして「メカニズム派」の判断なのかと疑ってしまう。事情が分かる方がいらしたらどうか教えて下さい。

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