月別アーカイブ: 2014年4月

公共を語る言葉が日本にないのは…(1)―法の精神

私は割に世間知らずな方である。はっきりものを言うというので(あと女なので)、行政の会議などで使われているところがあるが、世間の人たちは意見なんか言っても仕方がないと知っているから言わないのだろう。私はそんな風にはまったく思っていなかった。思っていなかったので、正しいと思うことを発言し、人の意見も正しいかどうかという観点から聞き、いったいこの国はなんでこんなに理屈が通らないのだろうかと首をかしげていた。しかし、最近になってようやく、「そうだったのか」と思うようになった。日本では、ほとんど全ての社会的な意思決定は、議論の結果ではなく、「互いの立場」や「上の人の意向」「『国民』」の意向を(誰かが)忖度した結果によって決まる(法律の内容すらそうである)。正しさをめぐって議論などしても仕方がない、ということになるのは、当然のなりゆきである。

だがしかし、最終的に理屈が通らない、ということが分かっている社会で、法学なんていう学問を情熱的に続けていけるものだろうか。私にはちょっと考えられない。だって、「正しさ」の基礎を、宗教に代表される伝統的な「権威」ではなく、軍事的な強さでもなく、「理性による探究」に置くことこそ、近代法の基本精神なのだ。「理性による探究」を、社会を調整する原理にしましょうね、という前提で、近代社会は成り立っているのである。しかし、日本社会は、「理性による探究」の結果を、決まった結果を正当化するために使うことはあっても、真に意思決定の基礎にすることは決してない(意思決定の基礎になっているのは、「みんな」とか「上の人」とかいった謎の「権威」である)。これは、日本には近代の「法の精神」がまったく根づいていない、ということにほかならない。私は日本の法学の議論のレベルが低いとは思わないが、ひょっとすると、この肝心なところを放置して、近代国家であるような見せかけを作ることしかしてこなかった学問なのではないか、という悲しい疑念を持つようになっている(考えるといつでも目を潤ませられるくらい悲しい。ほんとに)。どうでしょう、みなさん?

昨今の政治情勢に関して、「日本は法治国家から人治国家になろうとしている」と指摘されているけれども、本当の意味で法の支配する国であったことはないのではないかと私は思う(真剣にそうなろうとしたことはあったと思うが、達成しないうちに、達成していないことが忘れられてしまったのではないか)。

刑法の研究などそっちのけでこの問題を考えた結果、さしあたり、これは日本語そのものの特異性、そしてもちろん、日本語を形成してきた歴史の特異性に由来する、という暫定的な結論を得た(もちろん私が考えたというより、いろいろなものを読んで「そうか」と思っただけだが)。分かったからといって簡単に解決はできないだろうが、分からなければ始まらない。というわけで、長い話になります。

                                * * *

外国にときどき行くようになり、また日本でも外国の(欧米に限らない)人と接する機会を持つようになったとき、まず驚いたことは、公共的なことがら(社会の共通利益に関すること)をフランクに語り合うことが非常に容易である、ということだった。あまりに衒いなく語られるので、「なんかこれは建前論として、きれい事を語っているのだろうか?」と感じるほどだった。でも違う。私は日本では、普通に(公共的なことがらについて)思ったことをしゃべるのに、「きれい事に聞こえるかもしれませんが…」と言い訳をしてから話し始めることが多い(その上、「ええっと」とか、少し嘲笑気味の照れ笑いとか、そういうものをどうしてもくっつけてしまう)。日本では公共的なことがらについてまじめに語ることそれ自体が「きれい事」みたいに受け取られてしまうが、日本以外の国ではそうではない。驚きだった。

(宇多田ヒカルが「英語ではシリアスなことを言えるけど日本語では言えない」と言っていた、という話を、たしか高橋源一郎さんがどっかで紹介していたのを読んだことがある。「分かる分かる分かる分かる」と思ったものだった。)

オーストラリア26代大統領ケビン・ラッドのアボリジニへの謝罪演説(2008年)というのは、日本ではどのくらい知られているのだろうか(私はクリス・アボット『世界を動かした21の演説』(英治出版・2011年)を読むまで知らなかった)。とても率直で丁寧で謙虚で前向きなすばらしい演説で、私がオーストラリア人だったら、よくやってくれた、と心から感謝をするだろう。既成事実の積み重ねだけでは解消できない重たい事実というものはやはりある。オーストラリアの白人がぎこちなさをまったく感じないで先住民と付き合っていくためには、理性と感情が伴った言葉による事態の総括と謝罪と将来への誓いがどこかで行われる必要があった。ケビン・ラッドがいうように、「これは真実なのです。私たちに突き付けられた冷厳で居心地の悪い真実なのです。私たちがこの真実と真正面から向き合うまで、私たちはいつまでも影に覆われ、完全に和解し完全に結ばれた国民としての将来は晴れないでしょう」。当時この演説がどのように受け止められたのか(何しろ知らなかったので)分からないが、おそらくは、それを成し遂げたのではないかと思う。ネットでも読めるので(http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-619.html 翻訳は途中までです)、ご一読をお勧めします。

前回書いたように、日本にも差別は様々に存在してきたし、今でもある。しかし、なんというか、「落とし前」は付けられていない。私は国籍や出身地や何とかはその人と個人的に親しくなれるかどうかと関係がないと思っているけれど、例えば自分が被差別部落出身者だったり在日韓国人だったりして、それをごく普通に他人に言えるか、というと、それは難しいと感じる。反対に、誰かにそう言われたとして、まったくぎこちなさを感じないでいるのは難しい。これは個人の差別感情の反映ではないだろう。日本人として、日本社会の問題を引き受けているからそうなるのだ。

私はまったくぎこちなさを感じないで、すべての人と付き合いたい。北朝鮮の人とも中国の人とも韓国の人とも、相互の社会同士の軋轢を感じないで付き合えるようになりたい。しかし、それは個人の力で完全に成し遂げられることではなく、日本を代表する立場の人が、言葉で、関係するすべての人を説得し納得させることによって初めて成し遂げられることである。だから今すぐにでもそうしてもらいたいと思うのだが、どうでしょう。日本の政治家が、ケビン・ラッドのように演説する姿を想像できますか。演説は、まあ、しようと思えばできるんだろう。しかし、その言葉が上滑りせず、真に人々の心に訴えかける場面を想像できますか。

私はできない。自分で読み上げてみるとよく分かると思うのだが、なんか日本語って違うでしょう?「私は、その約束を果たします」とか、言った瞬間に、「そんなことを真顔で言える奴は絶対信用できない」という感じがするでしょう?ね。そうなんですよ。日本語って。

言葉が人を説得し、社会を変革するためには、適切な言葉が発せられなければならないのはもちろんだが、それ以前に、人々が(ここでは論理的なものとしての)言葉を信じていなければならない。なんていうんですかね、言葉による説得、というのはあり得ることで、適切な説得がなされれば受け容れる準備がある、という状態でなければならない。言葉を発する方と、受け取る方が、両方、言葉の現実形成力を信じていなければならないわけである。しかし、大変悲しいことに、現在の日本にはそれはない。日本(の公的言論)にあるのは、みんなの気分を代弁する言葉、現実を覆い隠すための言葉、そうでなければ、現実と乖離した言葉(法学の発している言葉はこれではないか)だけで、現実と結びついて、現実を作る言葉というのは、存在しないのである。


精神科医の斎藤環さんが、日本人には情報管理(「記録」「伝達」「保存」のすべて)ができないことを指摘した上で、それは「私たちの言葉が、現実と乖離しているからだ」と述べておられる(斎藤環「日本人と秘密」atプラス19号)。少し長いし、引用内引用まであるが、引用する。

「欧米圏、とりわけアメリカの報道に接していていつも痛感するのは、そこに『言葉が現実を構成する』という強固な信念がある点だ。とりわけ「文字=現実」という認識は日本人よりもはるかに強いように思われる。
たとえば池田純一は、つぎのように指摘する。『アメリカで紡がれる言葉や表現には多様な集団間の拮抗という緊張感に基づいて発せられるものが多数ある。ある行動や未来の実現のために発せられる言葉は表現が多数ある。裏返すと『言葉を発すればそれは実現する』『言葉には現実を促す力がある』と見なす文化がある』(『ウェブ文明論』」。
つまりアメリカ社会においては、言葉と現実の関係は、日本よりもはるかに緊密なのである。またそれゆえに、アメリカは、政治決定のあらゆるプロセスを強迫的なまでに言語化して記録し、アーカイブとして保存しようとする。」

これに対して、日本人は、言葉が現実であるとはほとんど思っていないため、記録も取らないし、保存もしないし、適切な伝達もできない。理想も語れないし、社会を動かす演説もできない。

「なぜ私たちは『現実』を語れないのか。なぜ私たちは『言葉で現実を変える』可能性に対して常に冷笑的なのか。」

この問いに対して、斎藤環さんは、柄谷行人を参照して、日本語の特殊性が関わっているのでは、と示唆される。それはそれで面白いのだが、私としては、じゃあ、その日本語の特殊性をもたらしたのは何なのか、と思ってしまう。そこで考えると(というのは嘘でいろいろ読んだものをつなぎ合わせると)、それは、日本の政治システムの特殊性、要するに歴史から来ているのではないか、と思われる。

うまくまとめられる自信がないが、つづきは次回に。話は平安時代にまで遡ります。(続く)

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遺伝差別禁止法について――不正競争防止法による対応、差別立法の可能性

1 はじめに

ゲノム研究の進展と法的・倫理的課題、といった感じのテーマを考える機会が多く、少しずつ勉強をしてきたが、人の遺伝子解析およびその医療応用等が進むことで、何かこれまで人類が経験したことのない全く新しい問題が生じる、ということはないように思う。ただ、これまで大ざっぱにしか分からなかったことを精密に示しうる、という遺伝情報の特質が、既存の様々な問題に対して拡大鏡のように機能する、ということはありそうだ。すでに社会にある問題がより誇張された形で現れる、というのが、(たぶん)遺伝情報の問題性であり、「差別」はもちろんその一つである。

ゲノムにかかわる人は皆この点を意識していて、「日本も米国のように遺伝(情報)差別禁止法を制定しないと研究が進まない」と訴えられることが非常に多い。普段は、「さしあたりご心配は不要」と言って、下の「公式見解」のみをお伝えしているが、あくまで「さしあたり」なので、その後の展望についても考える必要がある。その部分を含めて、ごく簡単な情報提供をさせていただきたい。

2 公式見解――不正競争防止法による対応

ゲノムの解析情報はデータベース化して共有しなければほとんど意味がない。研究者の方々が懸念されているのは、データベースにセキュリティ対策を施すことは当然としても、誰かが意図して被験者の情報を漏洩し、それが雇用差別に用いられたり、ネットに差別的な書き込みがなされたりする事態は防止できない。そうした場合に対する法的対応が日本ではなされていないのではないか、ということである。

たしかに保険や雇用への遺伝情報の利用そのものを制限するような法律は日本には存在していないし、すぐに作るのも容易でない。アメリカやその他の国は「ゲノム」以前に、(それぞれレベルの差はあれ)差別を包括的に禁止する法律を持っているが、日本はそもそも差別を禁止する法律を持っていない(せいぜい男女雇用機会均等法くらいしかない)。ゲノム研究の重要性がどのくらい認識されているのかもよく分からない日本で、いきなりゲノムに関して差別を禁止する法律を作ろう、というのは現実的とはいえない。

しかし、「差別」の部分で禁止できなくても、「漏洩」とか「目的外利用」が禁止できれば、上のような問題に対応することは可能である。日本では不正競争防止法がこの部分をカバーしており、実は、大抵の行為は既に厳罰の対象になっている。
不正競争防止法21条は、営業秘密の不正取得、不正な使用・開示、横領、義務に反した不消去等の行為を広範に処罰の対象としており、法定刑の上限は10年の懲役および1000万円の併科である。これは窃盗罪や詐欺罪、業務上横領罪等の一般財産犯よりもさらに重い処罰であり、法人処罰(最高刑罰金3億円)、国外犯処罰の規定も存在する。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H05/H05HO047.html#1000000000005000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

「営業秘密」とされるのは、「秘密管理性」「非公知性」「有用性」の3条件を満たす情報であり、顧客名簿等のデータベース、設計図、製法などがこれにあたる。遺伝情報等の情報も、産業上有用性のあるものが秘密として取り扱われている限り、営業秘密としての要件を満たすと考えられる。
ただ、こうしたことが一般にあまり知られていないことはたしかなので、関係者による不正行為を防止し、研究参加者にはある程度安心してもらうためには、データベースを運営する側において、万一情報の不正取得・利用等が行われた場合には直ちに不正競争防止法違反行為として告訴を行う方針とし、その方針を周知することが必要と思われる。

3 差別対策立法への道

そうはいっても、日本に差別一般を禁止する法制度がほとんどない、という事実に変わりはなく、今後様々な形で遺伝情報の利用が進んでいくであろうことがほぼ明らかな状況において、これは大いなる不安材料である。遺伝情報は個人の人間性を詳らかにすることが決してない代わりに、人格に関わらない類型的な性質はかなり明らかにしてしまう(先祖の出身地とか)。これが現実の差別的取扱や嫌がらせにつながらないとは考えにくいが、現在の法律の下で有効に対処できるかは分からない。というか、おそらくあまりできないだろう(断言できないのは勉強していないせいです。すみません)。

日本は1995年に国連人種差別撤廃条約に「加入」(批准ではない)しているが、条約の求める法整備を一切していない。日本で各種ヘイトスピーチ事件が起きていることを受けて立法等の具体的な勧告がなされた後でも、日本政府は「正当な言論までも不法に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の煽動が行われている状況にあるとは考えていない」という内容の報告書を、平然と提出しているのである(2013年1月)。日本政府は、この点についてはびっくりするほど反応が鈍く、まったくやる気を示していない。

京都や大阪や東京の街頭でのヘイトスピーチ事件(ヘイトスピーチってちょっと言葉が格好良すぎる)を報道で知ったとき、いちばん驚いたのは、マスコミがなぜ起きた直後に一面トップ、番組冒頭で報道し、大騒ぎをしなかったのか、ということだった。普通の小学校や商店街で同じようなことが起きたら(例えば外国人が日本人を攻撃したら)、連日トップで報道が繰り返されるはずである。被害の直後にきちんと報道がなされ、しかるべき大きさで扱われ、市民からの強い非難が伝えられれば、被害に遭った人たちがどんなに心強かっただろうかと思うと、本当に腹立たしい。佐村河内氏の事件なんかでマスコミはずいぶん反省したり謝ったりしていたようだったけど、そんなことはどうでもよいからこの件について反省してもらいたい。日本政府は「社会内で自発的に是正していくことがもっとも望ましい」という立場を上記の報告書で示しているのだが、メディアが伝えもしない国で、自発的に是正されるなんてことはあるはずがない。

そういうわけで、日本には差別思想は明確に存在しており、その被害から個人と社会を守るためには立法が必要だと私は思っている(どのような内容の、ということはいずれきちんと示したい)。しかし、同時に、日本政府が過去から現在に至るあらゆる差別を否認しているような状況で、しかもそれに対する批判が決して強いとはいえないような状況で立法をしても(立法自体が難しいのはもちろん)、それが十分に機能することはないだろう、とも思っている。法律は人が使うものなので、運用する人間次第でどのようにもなる。まったく存在しないかのように扱うことだって、ありえない解釈をして趣旨の実現を妨げることだってできる。日本に住む人の相当数が「それはありえない!」と憤って声を上げるような社会にならないと、法律もその力を発揮することはできないのである。

医学系研究者の皆さん、「差別立法」を論じるということは、ある意味で、日本の国が「なかったこと」にしてきたこと、私も含む多くの日本人がはっきりと見ないようにしていることを、全部白日の下にさらして議論をし、何とか前に進もうよ、というようなことなのです。この国は「公然の秘密」を本当になかったことのように扱う技術(なのか…)に長けていて、「なかったこと」にされていることが本当に多く、しかもわれわれはそれを日常的に語る言葉も持ち合わせていない、というような状況なので、これはとてもとても容易でないことであるのです。「立法を」と言われると「簡単にいわないでくれよ!」という気持ちにいつもなりますが、しかし、やらなくてよいことではない。これもはっきりしていることです。では、どのようにすれば、よい方向に向かうのか。これは次回に考えて書く予定です。

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説得の言葉と正当化の言葉

日本には演説に代表される「公共的な言論」で人々の心に残っているようなものがないなあ(そしてそれは民度とかかわってるよね、とも)、と思っていたが、大正デモクラシーの前後の、差別されてきた層が権利の拡大を求める運動の中にそれがあることに気づいた。

水平社宣言(大正11年)の「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」とか、平塚らいてうの青鞜発刊の辞「原始、女性は太陽であった」(明治44年・1911年)とか。

  http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/siryou/kiso/suiheisya_sengen.html

  http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hiratsukaraiteu.html

 *水平社宣言の言葉は先日「世界記憶遺産登録を目指す」というニュースに接するまで私は知りませんでした。すみません。

改めて読んでみたが、どちらもたしかに心を打つ、力のある文章である。

これらは、権利を認められていない層が社会に対してそれを要求するために発せられた言葉であり、必然的に「説得の言葉」である。他人に対してだけでなく、自己に対しても、未知の方向に向かって、何が真実かを問いかけながら進んでいくための言葉である。だからこそ、これらの言葉は胸に届くものでなければならないのだし、届くものになりうるのだろう。

日本では公的な言論のほとんどは「正当化の言葉」である(役所関係の検討会報告書などはその典型ですね)。正当化の言葉と説得の言葉は、理に適っていることが要求される点は共通だが、理路の方向は真逆である。

説得の言葉は、まだ正しいと認知されていないものを届けるために、何が正しいのかを探り確かめながら進む。既存の現実から新しい認識に達するには、しかるべきところで裂け目を思い切り飛び越えることが不可欠で、細心の注意と勇気が同時に要求される。これがうまくいった場合に、文章の訴求力も生まれる。

これに対して、正当化の言葉は、すでに決まった方向を、後から説明するための言葉である。結論はもう決まっているのだから、あとは「理に適っている」外観を装うための辻褄合わせである。このような文章は当然訴求力を持たないが、「決まっている」のだから、別に人の心を打つ必要はない。社会で安定した地位にあり、その地位を脅かされる心配がない人、そしてその状態を継続したいと思っている人の言葉である。本当は政治家の言葉は国民に対する説得の言葉であるべきだが、しばらく前までの日本では平然と正当化の言葉だった(最近はそのレベルですらない)。

前にロースクールの答案の多くに「懐疑」が足りないと書いたが(http://s-tatsui.com/archives/43/)、懐疑が生じないのはそれが「正当化の言葉」として書かれているからですよね。結論は決まっている。だからイラッとするのだな、と今分かった。

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